2019年9月17日
アルベール・カミユ 「結婚」 柏倉康夫訳 ティパサでの結婚(9)
ティパサでの結婚(9)
このカフェの食事はまずい。でも果物は豊富だ――とくに桃は、かじって食べると汁が顎をしたたる。桃にがぶりとかじりつくと、わたしは血が耳までのぼってきて大きく脈打つのを聴き、目をこらして辺りを見つめる。海の上には、真昼の巨大な沈黙。美しい存在は、みな自分の美しさに自然な衿侍をもっている。そして今日、世界はあらゆるところで、その衿恃をにじませている。すべてを生きる歓びに閉じ込めることは出来ないと知っていても、世界を前にして、生きる歓びを否定できるだろうか? 幸せであることを恥じることはない。でもいまや、愚か者が王者だ。愉しむのを怖れるものを、わたしは愚か者と呼ぶ。人びとは傲慢さについて多くを語って聞かせてきた。きみ、それは悪魔の罪だ、用心したまえ、警戒することだ、自滅するよ、強い力を失うぞ、と警告した。そのときから、わたしはある種の傲慢さを学んだ。・・・でも別のときには、世界全体が共謀して、わたしにあたえようとしている、生きるという傲慢さを要求せずにはいられない.ティパサでは、見ることは信じることと同一だ。わたしは手で触れ、唇が愛撫するものを、敢えて否定しようとは思わない。わたしはそこから一つの芸術作品をつくりだす必要を感じない。ただその違いが何かを語りたいとは思う。ティパサは、人が世界についてもつ観点を間接的に語るために描きだす作中人物のように、わたしには見える。彼らと同様、ティパサは証言する、それも力強く。ティパサは今日、わたしの作中人物だ。一度それを愛撫し、それを描写すれば、わたしの陶酔には限界がないように思える。生きるべき時があり、生きることを証言するべき時がある。同様に創造するための時もある、だがそれはあまり自然なことではない。全身で生き、全霊で証言するだけで十分だ。ティパサを生き、証言する、そうすれば芸術作品は自ずとやってくるだろう。そこにこそ自由がある。