2019年10月15日
アルジェの夏(5)アルベール・カミユ 柏倉康夫訳
アルジェでは、人びとは「海水浴をする」とはいわずに、「水遊びをする」という。でもそれはどうでもいい。人びとは港で泳ぎ、ブイの上で休む。きれいな娘がすでに乗っているブイのそばを通るときは、仲間に、「おいカモメがいるぜ」と叫ぶ。これこそ健康な喜びだ。こうした喜びが、若者の理想なのだと信じる必要がある。なぜなら、彼らの多くはこうした生活を冬の間も続けるし、毎日、昼になると、裸になって太陽に当たりながら、質素な昼食をとるのだから。それは彼らが、ナチュリストたち、あの肉体のプロテスタントたち(そこには、精神の場合と同様の忌々しい肉体の教条主義があるのだが)の、退屈なお説教を読んだからではない。そうではなくて、彼らが〈太陽の子〉だからだ。わたしたちの時代にあっては、こうした習慣の重要性をそれほど高く評価しはしないだろう。二千年この方、はじめて肉体が浜辺で裸にされた。人びとは二十もの世紀にわたって、肉体を隠し、衣服を複雑にして、ギリシアの天衣無縫ぶりと素朴さを慎ましやかなものに変えた。そしていまは、こうした歴史をこえて、地中海の浜辺の若者たちの競争は、デロスのアスリートたちの素晴らしい動作と一つになる。そして肉体のかたわらで、肉体でもつて生きることで、肉体はニュアンスを帯び、命を得る。さらにナンセンスになるのを恐れずにいえば、肉体にも固有の心理があることを悟るのだ。《原注1》肉体の進化には、精神の進化と同様に、歴史も、回帰も、進歩や欠陥もある。違いは色のニュアンスの差だけ。港へ泳ぎにいけば、白から黄金色、さらには褐色、そして肉体の変貌可能の限界であるタバコ色までの肌という肌が、同時に通りすぎるのに気づかされる。港は、カスバの白い立方体の戯れに支配されている。水面の高さから見ると、アラブの街のどぎつい白い地を背景に、さまざまな肉体が赤銅色の壁を展開する。八月になって、太陽が大きくなるにつれて、家々の白は一層目をくらますほど輝き、肌は前よりも一層濃い色になる。だから、太陽と季節にしたがって、石と肉との対話に、どうして同化せずにいられよう? 午前中は、水に潜ったり、水しぶきのなかで大笑いしたり、赤や黒の貨物船のまわりで、櫂をゆっくり漕いだりして過ぎていく。(ノルウェーから来た貨物船は木の匂いがするし、ドイツから着いたものは油の臭いで一杯だった。沿岸巡航船にはブドー酒の古い樽の匂いがしみこんでいる。) 太陽が、空のあらゆる隅からこぼれ落ちる時刻、渇色の肉体をいくつも積んだオレンジ色のカヌーが、わたしたちをまた狂気じみた競争に連れもどす。そして、果物の色をした翼が二重についている櫂がたてる、リズミカルな水音を突然中断させて、ドックの静かな水の上をずっと滑っていくとき、滑らかな水をかきわけて、わが兄弟である褐色の神々を運んでいるのだと、どうして確信せずにおられよう?
《原注1》ジッドが肉体を称揚する仕方が気に入らないといったら、物笑いの種になるだろうか? 彼は肉体に欲望を抑えることを要求し、かえって一層肉欲を研ぎすませてしまう。だとすれば彼は、娼家の隠語で、〈compliqués>(面倒な人たち)とか、〈cérébraux〉(頭でっかち)と呼ばれる人たちに近いのだろう。キリスト教も欲望を抑えることを望んでいる。だがもっと自然にであって、そこにはある種の苦行が見てとれる。友人のヴァンサンは樽屋で、ジュニアの平泳ぎのチャンピオンだが、彼は物事をもっと明快に見ている。喉が渇けば飲むし、女が欲しくなれば寝る女を探す。そしてもし万一その女が好きになれば、結婚するだろう。(もっともまだそれには至っていないが)。彼はいつもこういっている、「これで万事うまくいくさ」。――この言い方は、欲望の充足についてなし得る弁明を、うまく要約している。