2019年10月28日
アルジェの夏(13)アルベール・カミユ 柏倉康夫訳
こうした民衆が万人に受け入れられないことは、よく分かっている。ここでは、知性はイタリアでのような地位を占めてはいない。この人種は精神とは無縁なのだ。彼らは肉体を信仰し、讃美している。肉体から、力と、素朴なシニスム《原注二》と、子どもっぽい虚栄心を引き出すが、その虚栄心は、彼らにとっては厳しく裁かれるのに値するものなのだ。人びとは、彼らの「メンタリティ」、つまり、ものの見方や生き方を当然のように非難する。そして生のある種の強烈さは、不当なことを伴わずにはいないというのは本当だ。ただここには、過去や伝統を持たない民がいる。しかし詩がないわけではない。とはいえ、それはわたしがその特質をよく知っている詩、残酷で、肉欲的で、優しさからはほど遠く、彼らの空と同じで、わたしを感動させ、惹きつける唯一真実の詩。文明化された民の対極、それは創造者である民だ。浜辺でくつろぐこの野蛮人たち、彼らはそれと知らずに、いま、文化のある一つの顔をつくりつつある最中なのだという突飛な希望を、わたしは抱く。人間の偉大さは、彼らの顔に真の素顔を発見するだろう。現在というものにすべてを投じたこの民は、神話や慰めもなしで生きている。彼らは富のすべてをこの土地に託し、以後、死に対してはまったく無防備なのだ。天からの授かりものである肉体の美しさは消費されてしまった。そして彼らには、未来のないこの豊饒には、常に独特の渇望がついてまわる。ここで人びとが行うすべてが、不毛への嫌悪と、未来に対する無頓着ぶりを示している。人びとは生ることに性急で、もしも一つの芸術が生まれるはずなら、それは持続への憎しみに従順なものだろう。この憎悪こそ、かつてドーリア人をかりたてて、森のなかで、彼らの最初の柱を刻ませたものだ。そう、この国の民衆の、激しい、熱狂的な顔、そして優しさのまるでない夏の空、そこには節度と同時に過剰なものが見出される。この空を前にすれば、あらゆる真理を述べるのは快い。この空には、人を惑わすどんな神性も、希望も、贖罪もしるされることはなかった。この空と、それを仰ぎ見た顔の問には、神話や、文学や、倫理や、宗教を引き止めるものは何もない。あるのは、小石や、肉体や、星だけで、それだけが手で触れることができる真実なのだ。
「覚書」
挿画として、バブ=エル=ウエドで耳にした喧嘩話を一語一語再録する。(話し手は、あのミュゼットのカガユウ〔作家オーギュスト・ロビネがミュゼットの筆名で書いた、アルジェリア人の主人公カガユウの冒険奇譚〕のように、いつも話すわけではない。それは驚くには当たらない。カガユウの言葉はときに文学の言葉、つまり、再構成されたものなのだ。「やくざ」の連中が常に隠語を話すとは限らない。彼らは隠語を使うが、それはまた別のことだ。アルジェっ子は特有の語彙と特別な文法を用いるが、それがフランス語に入れられることで、独特の味が生まれるのだ。)