2019年11月7日
砂漠(2) アルベール・カミユ 柏倉康夫訳
彼らの絵の人物たちが、ブイレンツェやピサの通りで毎日出会う人たちだと気づくには大分時間を要する。だが同時に、わたしたちは周囲の人たちの本当の顔を見る術を、もはや知らないでいる。わたしたちはいまや同時代の人びとの顔をじつと見たりはしない。ただ、彼らのうちにあって、わたしたちの意向に沿うもの、わたしたちの行為を規律だてるものを強く望むだけだ。わたしたちは顔よりも、もっとも卑俗なその詩の方を好む。だがジオット(2)やピエロ・デッラ・フランチェスカ(3)は、人間の感受性など何ものでもないことを知っている。実際のところ、心はみなが持っている。だが、憎しみ、
涙、歓びといった、生きることへの愛がそこに引き寄せられる、単純で永遠で偉大な感情は、人間の奥底で増殖されて、その宿命の顔を造形するのだ。――ジオッテーノの埋葬のなかで描かれたように、マリアの、食いしばった歯に現れている苦悩がそれだ。トスカナの教会の巨大なマエスタ(4)の数々では、他のものから転写され続けてきた顔をもつ天使の一群を目にした。そしてわたしは、これら沈黙する情熱的な顔の一つ一つに孤独を認めるのが常だった。
訳注
(2)ジオット・デイ・ボンドーネは中世後期のイタリア人画家で建築家。
(3)ピエロ・デッラ・フランチェスカ、イタリア・ルネサンス期を代表する画家。
(4)マエスタ、キリストを抱いた聖母マリアの像