2019年11月8日
砂漠(3) アルベール・カミユ 柏倉康夫訳
問題なのは、まさにピトレスクであり、エピソードであり、ニュアンスあるいは感動するものだった。つまり詩が問題となるのだ。大事なのは真実だ。そしてわたしは、持続するものすべてを真実と呼ぶ。この点に関しては、ただ画家だけが私たちの餓えを鎮めてくれるといった、考えなくてはならない微妙な教訓がある。それというのも、彼ら画家だけが、肉体の小説家となる特権をもっているからだ。彼らは、現在と呼ばれるこの壮麗で移ろいやすい材料で仕事をするからだ。そして現在は常に仕草のなかで思い描かれる。彼らは、微笑、儚い差恥、悔恨、期待などは描かず、骨がつくる浮彫りの顔と、血の熱さを描く。彼らは永遠の線のなかに凝縮された顔という顔から、精神の呪いを永久に追放してしまった。それが希望の代償だった。なぜなら、肉体は希望を知らず、脈打つ血しか知らないからだ。肉体に固有の永遠は、無関心からなりたっている。丁度あのピエロ・デッラ・フランチェスカの《笞刑》のように、きれいに洗われた中庭で拷問されるキリストと、屈強な肢体の死刑執行人は、その態度で同じような放心を示している。それはまさしく、この体刑には続きがないからである。そしてこの教訓は、画布の枠内に留まっている。明日を期待しない者にとって、感動するどんな理由があるだろうか? 希望をもたない人間のこの無感動とこの偉大さ、この永遠の現在、それこそが、まさに分別ある幾人かの神学者たちが地獄と呼んだものだ。地獄とは、誰もそれを知ることはないように、苦しむ肉のことでもある。トスカナの人たちが立ちどまるのはこの肉であり、その宿命ではない。預言的な絵画といったものはない。希望を抱く理由を探さなくてはならないなら、それは美術館のなかではない。