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2019年11月13日

砂漠(6) アルベール・カミユ 柏倉康夫訳

 そう、こうした人びとによって明かされた教訓を、イタリアはその風景によっても惜しみなくあたえる。だが、幸福が欠けることはよく起こる。なぜなら、幸福はいつも不当なものだからだ。イタリアについても同じことだ。その恩恵は、唐突ではあっても、いつも直接的だとは限らない。他のどの国よりも、イタリアは一つの経験を深めるように誘う。とはいえ、それは最初の出会いにすべてを委ねているように見える。それというのもイタリアは、先ずは、詩を惜しみなくあたえておいて、巧みにその真実を隠してしまう。その最初の妖術が忘却の儀礼だ。モナコの夾竹桃、花と魚の臭いで一杯のジェノワ、リギュリア沿岸の青い空。そしてピサ。ピサとともにリヴィエラの、いささか下品な、魅力を失くしたイタリア。それでもイタリアは相変わらず気安く、その官能的な魅力に身を委ねずにはいられない。ここにいる間、わたしは何にも強制されず(割引切符のせいで、〈自分が選ん〉街にしばらく留まらなくてはならなくて、追い立てられる旅行者の喜びを奪われている)、最初の夜は、愛し理解することに、忍耐の際限がないように思われた。その夜は、疲れと空腹をかかえて、ピサの街に入った。駅前の大通りでわたしを迎えたのは、群衆に向けて、歌謡曲を雷鳴のように吐き出している十数台のスピーカーだった。群衆のほとんどが若者だった。わたしにはこのときすでに、自分が何を期待しているか分かっていた。この生の躍動のあとは、いつもの奇妙な瞬間だろう。店仕舞いしたカフェ、突然また戻ってきた静寂。わたしはそのなかを、暗い小路を通って街の中心に向かう。黒や金色に光るアルノ河、黄色や緑色の遺跡、人気のない街。夜十時のピサは、沈黙と水と石の不思議な書割に変わる。この突然の、巧妙なからくりを、どう描写すればいいだろう。〈それは同じような夜だよ、ジェシカ!〉。このユニークな丘の上に、いま神々が、シェイクスピアの恋人たちの声とともに姿をあらわす・・・夢がわたしたちに相応しいときは、その夢に身を委ねることを知る必要がある。人びとがここへ探しにくるものより、内面のずっと奥にある歌。その最初の和音を、わたしはすでにイタリアの夜の底に感じていた。明日、明日にさえなれば、朝には野が丸く円を描くことだろう。だが今宵は、ここで、神々のなかの神であり、「恋に運ばれる足どりで」逃れ行くジェシカの前で、自分の声をロレンツォの声と混じり合わせる。だがジェシカは口実でしかない。この恋の躍動は彼女を超える。そう、わたしが思うに、ロレンツォは、愛すのを許されることに感謝するほど、彼女を愛してはいない。でもなぜ今宵はヴェニスの恋人たちのことを思い、ヴェローナを忘れているのだろう? それは、ここには不幸な恋人たちを慈しむように促すものが、何もないからだ。恋のために死ぬほど、虚しいことはない。必要なのは生きることだ。生けるロレンツオは、たとい薔薇に囲まれていようと、地下に埋葬されたロメオよりずっとましだ。それなら、生きている愛の祭りで、踊らずにいられようか――わたしはその日の午後を、いつでも訪ねられるピアッツア・デル・ドゥオーモ(5)の丈の低い草の上で眠って過ごした。水は少し温いが、流れを止めることのない街の泉で喉を潤し、鼻が高く、口元は高慢だが、笑顔を絶やさない女の顔を振り返って見る。こうした秘儀が、より高い啓示を準備しているのを理解できるだけでいい。それはディオニューソス(6)の秘儀をエレウシス(7)にもたらす輝かしい行列だ。人間が教訓を準備するのは喜びのなかだし、陶酔が頂点に達したとき、肉体は意識となり、黒い血と、その象徴である聖なる神秘との交わりが成立する。この最初のイタリアの情熱から汲み取られた自我の忘却こそ、わたしたちを希望から解き放ち、わたしたちを歴史から奪い去る教訓を準備する。美の光景を前にした肉体と瞬間との二重の真実、待ち望まれた唯一の幸福にしがみつくように、それに執着せずにいられようか。その幸福はわたしたちを胱惚とさせ、同時に滅び去らなくてはならない。

訳注
(6)ディオニューソスはギリシア神話の神で、しばしば酒や踊り、音楽などで人びとを酔わせ、彼らをさまざまな抑制から解き放って、自然な状態に立ち戻らせた。これが「ディオニューソスの秘儀」である。
(7)エレウシス、古代ギリシアのアテナイに近い都市。ギリシア神話に登場する女神デメテルの祭儀の中心地として知られる。



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