2019年11月18日
砂漠(8) アルベール・カミユ 柏倉康夫訳
それでも、いいたかったのはそのことではない。わたしは、自分の反抗の中心に感じていたひとつの真実を、もう少し近くから点検してみたかったのだ。わたしの反抗はそうした真実の延長にすぎなかった。その真実とは、サンタ・マリア・ノヴェルラの教会の遅咲きの薔薇から、軽やかな服を着て、胸をひろげ、唇の濡れた、あのフィレンツェの日曜の朝の女たちへと赴く真実だ。その日曜日、どの教会の片隅でも、豊かな、眩い、水で真珠のように輝いた花が棚に飾られていた。わたしはそこに、ご褒美と同時に、一種の〈素朴さ〉を見出した。女たちと同様、花々には気前のいい豪奢さがあった。わたしには、誰かを欲することは他の人を渇望するのと、さほど違うとは思えなかった。純な心さえあれば十分なのだ。ある男が自分の純な心を感じることは、そんなにあるものではない。しかし少なくとも、この瞬間、彼がしなくてはならないのは、自分をこれほど純粋にしたものを、真実と呼ぶことだ。たといこの真実が、他人には冒瀆と思えようと、わたしがその日考えていたのが、まさにこの場合だった。わたしは月桂樹の匂いにみちたフィエゾールのフランチェスコ派の修道院で朝をすごした。赤い花、太陽、黄色と黒の蜜蜂で一杯の小さな中庭に、長いこと留っていた。一隅に緑色の如露があった。そこに来る前わたしは僧房を訪ねて、髑髏の付いた僧たちの小さな机を見た。そしていまはこの庭が、彼らの霊感を顕現していた。わたしは丘づたいにフィレンツェへ戻った。丘は糸杉とともに開けた街へと下っていた。世界の素晴らしさ、女たち、これらの花々、わたしにはそれらが人間を正当化するもののように思えた。この素晴らしさは、極端な貧困が常に世界の豪奢や冨と結びつくことを知っている人たちの、素晴らしさであるかどうか、わたしは確信が持てずにいた。わたしは、柱廊と花々の間に閉じ込められたフランシスコ派の僧たちの生と、一年中を太陽に当たってすごす、アルジェのパドヴァニ海岸の若者たちの生に、ある共通の響きを感じていた。もし彼らが裸になるとしたら、それはより偉大な生のためだ(それは別の生き方のためではない)。少なくとも、それが《無一物になる》という言葉の唯一価値ある使い方なのだ。裸だというのは、常に肉体の自由を意味する。そして手と花々の一致――人間的なものから解き放たれた人間と大地の、愛おしい協調――ああ! もしこの協調が、すでにわたしの宗教でなかったなら、わたしは必ずや、それに改宗するだろう。こういっても、冒瀆にはならないだろう。――それに、ジオットの聖フランソワの内面的な微笑が、幸福の味を知る人たちを正当化するといったとしても、冒瀆したことにはなるまい。なぜなら、神話と宗教の関係は、詩と真実の関係と同じで、生きる情熱にかぶせられる奇妙な仮面なのだから。