2019年11月19日
砂漠(9) アルベール・カミユ 柏倉康夫訳
さらに先へ進もうか? フィエゾールでは、赤い花を前に生きる人たちが、瞑想を培う頭蓋骨を僧房に置いている。窓にはフィレンツェが広がり、机の上には死が鎮座している。絶望のなかのある種の持続は、喜びを生むことができる。さらにある気候のもとで人が生きるとき、その魂は血と混ざりあい、信仰と同様に、義務には無関心で、矛盾の上で簡単に生きことがある。だから、ピサの壁の上に、〈アルベルトはぼくの妹と恋をしている〉と陽気な手で書かれ、そこに名誉の奇抜な観念が要約されていても、イタリアが近親相姦の地であり、少なくとも、この方がずっと意味は深いのだが、近親相姦を告白する地であっても、わたしは少しも驚かない。なぜなら美から背徳へいたる道は、曲がりくねってはいても、確実な道だからだ。美に沈潜した知性は、虚無を糧としている。偉大さが喉をしめつけるような風景を前にして、観念の一つ一つが、人間の上に引かれた抹消を示す線だ。そうやって人間はやがて否定され、覆われ、覆いつくされ、圧倒的な確信によって次第にぼやけて行き、世界を前にしても、その色も、太陽も、真実も、受動的にしか知ることができない、形のない染み以外の何ものでもなくなる。真に純粋な風景は、魂にとっては無味乾燥で、その美は堪えがたい。石と空と水からなるこれらの福音書のなかでは、甦るものは何もないと告げられている。以来、心の底にある素晴らしい沙漠で、この国の人たちへの誘惑がはじまる。高貴な光景を前に育った精神の持主が、美によって希薄になった大気のなかでは、偉大さが善に結びつくことがあるのを納得しないとしても、何で驚くことがあろうか。知性を完成する神をもたぬ知性は、知性を否定するもののなかに一つの神を求める。ボルジアはヴァチカンに着くや、こう叫んだ。〈神がわれわれに教皇の位を委ねたいま、それを満喫しなくてはならない〉。そして彼はいった通りにしたのだ。急ぐことだ、とはよくいったものだ。人びとはそこに、満ち足りた人間に特有の絶望をすでに感じている。