2019年11月20日
砂漠(10) アルベール・カミユ 柏倉康夫訳
だが、ここは立ち止まるべきところではない。なぜなら、幸福はどうあろうとオプティミズムと不可分だとは言われなかったからだ。それは愛と結びついているこれは同じものではない。そしてわたしは、幸福があまりに苦く見えることがあるから、幸福よりは、その約束の方が好まれる時間と場所があるのを知っている。だがそれは、その時間や場所で、わたしが愛すための心、つまり諦めない心を、十分に持っていなかったからなのだ。ここでいわなくてはならないのは、大地と美の祝祭への人間の入場のことだ。そのとき人間は、入信者が最後のヴェールを取り去るように、彼の神の前で、自らの人格という小銭を捨ててしまう。そう、幸福はそこでは取るに足りないものに思える、さらに上の幸福がある。フィレンツェでは、ボボリの庭園の一番高いテラスまで登った。そこからは、モンテ・オリヴエトや、地平線まで領する街の上の方が見渡せた。一つ一つの丘では、オリーヴの木が青白く、小さな煙のように見え、糸杉のさらに固い若芽が、近いものは緑に、遠いものは黒く、オリーヴの木々の薄霧のなかに浮き出ていた。深い真っ青な空には、ところどころ刷毛で描いたような大きな雲が浮かんでいた。午後の終わりとともに、一筋の銀色の光が落ちてきて、すべてが沈黙してしまった。丘の頂は、最初は雲のなかだった。だが微風が起り、その息吹を顔に感じた。それとともに、丘の背後では、カーテンが左右に開かれるように、雲が二つに分かれていった。同時に、頂上の糸杉が、突然のぞいた青空のなかで、一挙にぐんと丈を伸ばしたように見えた。それとともに、すべての丘と、オリーヴと石の風景がゆっくりと立ち上がった。また別の雲がやってきた。カーテンがまた閉まった。丘は糸杉と家々とともに、ふたたび低くなった。するとまた遠くの、次第に消えていく別の丘の上で――ここで雲の厚い襲を押しひろげたあの同じ微風が、彼方では雲を閉ざしていった。世界のこうした大きな呼吸のなかでは、同じ息吹きが数秒の間隔で起り、世界の音階に合わせた石と空気のフーガのテーマを、間隔を置いてくり返すのだった。そしてその度ごとに、テーマは調子を落としていった。わたしが少し遠くまで追っていくと、それは少しずつ鎮まっていった。そして心に感じられる最後の展望に到って、揃って呼吸をしていた丘が遁れ去り、それとともに、わたしは、一目で、大地全体の歌のようなものを抱きしめたのだった。