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2019年12月17日

日々雑感 第八話 及部十寸保

第八話 「反戦教師」
 昭和二十年三月十日の東京大空襲によって家屋を焼失された北垣先生ご一家は、豊橋に移ってこられ、豊橋中学の先生になられた。東京大空襲のすさまじさを体験された先生は「日本はこの戦争に負ける。」とロ癖のように言われた。それは、軍国主義に育てられた私たちにとって好ましい言葉ではなかった。
 先生がいらつしゃった三か月後の六月十九日、豊橋空襲で市のおよそ七割の家屋が焼失し、六百二十四人が亡くなった。 私たちは、この空襲に備えて校庭にタコツボ型の防空壕を掘ったが、これで身が守れるとは誰も思わなかった。
 八月七日、私たち一年生は、大清水農業試験場にソバ刈りに行った。二年生以上の学生は、勤労学徒として、豊川の海軍工廠で兵器を作っていた。その日、B29の激しい爆撃によって、東洋一の軍需工場は壊滅し、二千五百人を越える学徒が犠牲になった。私たちは、大清水から豊川方面に上る黒煙を眺めて、先生が言われたように、日本敗北が近いことを悟った。
 すでに大都市のみならず中小都市も軒並み空襲の被害を受けた上に、資源が底をついて戦争の続行は不可能となっていた。私の父は、戦争中、中国で負傷し、日本に送還されたが、在郷軍人会のお世話で、日赤病院のレントゲン技師となっていた。父は軍曹で、会長は少尉、ひとつ階級が違うだけで上下関係ははっきりしていた。少尉の要請を受け、私の幼年学校受験が決まっていた。私が提出した受験票を見て、北垣先生は悲しげな顔をされ、「日本は負けるのに。」とだけ言われた。実際には、戦争の敗北に伴い、試験は行われなかった。
 北垣先生が言われたように、八月十五日に終戦となり、多くの教員が自信を失い、逆に北垣先生は元気になられた。先生は時習館高校の校内の教員住宅に住んでいらつしゃったので、蓄音機のような重いものでも教室に持参され、生徒にクラシック音楽を聞かせてくれた。先生は読み聞かせに熱心で、民話や文芸作品の「羅生門」「次郎物語」「走れメロス」などを読んでくださった。文化祭、体育祭などの学校行事にも積極的で、応援合戦のときなど、生徒一人一人のロに飴玉を入れてくださった。印象に残っているのは、歴史学者を父にもった先生の授業はわかりやすく、生徒は皆、歴史が好きになった。暗記しなければならない個別の事項より、歴史の流れを理解することを大切にされた。
 先生は「日本が戦後、戦争による犠牲者を一人も出さなかったのは、平和憲法のおかげだ。」と憲法を紹介された。私は、先生の反戦平和の精神を受け継ぐべきだと心に誓った。特に昨今、民主主義を否定して改憲を目論む安倍政治に明確にノーを言いたい。

2019年4月25日記す



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