2019年12月20日
日々雑感 第十一話 及部十寸保
第十一話 「組合づくりの記」
~おじいちゃんの学生時代は深刻な就職難でした。~
私に手を差し伸べてくれたのは、母の親友のご子息、紅露晃氏であった。晃氏は、私の高校時代の友人でもあった。紅露一家は、満州からの引揚者だったため、知り合いが少なかったが、母同士は親しい仲だった。だから、私の一家の面倒をみてくださった。そして、私を桜丘高校に紹介してくださった。
昭和三十四年(一九五九年)四月、私は桜丘高校に初出勤した。そして、その日は、男子部が開設された日でもあった。 男子学生の入学や男子教員の採用によって、学園は様変わりしていった。生徒たちは、もう二度と受験に失敗しまいという向上心を強く持っており、深津尚子さんがインターハイ卓球シングルスで優勝するなど、男女ともに、部活動が盛んであった。学園には活気が溢れていた。しかし、裁縫女学校としてスタートした学園の経営は、いまだ家族主義的で独断的であった。
学校の規模が大きくなったにもかかわらず、桜丘高校の教職員の賃金は低かった。身分保障もなかった。そういう状況に、教職員からは不満の声が高まった。そして、学園民主化を求める機運が生まれたのである。私たちは、組合づくりを慎重に始めた。経営者側にわかると、身分が危うくなると、秘密裏に事を運んだ。
たとえ、発足できたとしても、経営者の了解を得るのは非常に困難な場合もあると判断された。私たちは、誰に「猫の首に鈴をつける」役を担当してもらうのがよいか、真剣に相談した。
その役に一番ふさわしいと推挙されたのは卓球部監督松井彊先生だった。日本一の卓球部をつくってほしいと依頼され、その実現に日々努力されていた松井先生は、理事長夫妻の信頼が厚かったのである。
遂に、その年の暮れ、十二月八日に、組合結成大会が開かれた。出席者は予想を大きく超えた。経営者側は、組合対策として、公立中学校・高校の定年退職者を多く雇っていた。しかし、彼らのほとんどが組合に加入したのである。学園理事の田村先生ですら会場に現れたが、経営側に深い利害のある人の参加は組合法で禁止されていたため、丁重にお断りをせざるをえなかった。加入者の組合への要求は様々であったが、私たちは次のようにまとめた。
(一)賃上げ
(二)身分保障
(三)男女共学の早期実現
(四)父母との提携の推進
(五)私学助成の充実
(六)私教協(後の私教連)への加盟
この時期、政情による就職差別が行われていたので、組合をもつ私学は優秀な教員を採用することができた。それにより、組合活動はもちろん、学園も活気を増した。
後に、私も四代目委員長をつとめることになった。私が重点を置いたのは、組合活動を日常化することと、教員と父母との提携をさらに推し進めることだった。私は、優秀で素晴らしい教員仲間と、協力を惜しまない父母たちのおかげで、 充実した私学一筋の人生を送れたのである。幸せな一生だったと心から思う。
2019年5月10日 記す