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2019年12月24日

日々雑感 第十三話 及部十寸保

第十三話 「朗読劇 『この子たちの夏』 の取り組み」
 ヒロシマ・ナガサキの惨劇を二度と繰り返さない。そのためには、子や孫にその状況を正しく伝えることが大切である。
 二〇〇五年七月、私は豊橋市勤労福祉会館(現アイプラザ)で、よりよい席を求めて、足早に入場してくる人の群れを出迎えていた。そのあまりの数の多さに、私は、会場が満席になると確信した。それまでは音楽とか芸能ならば満員札止めになることがあるが、平和集会となると、千人どまりが限度であった。しかし、当時、桜丘高校の平和の塔が建立されたのを契機に、この地では平和を求める運動が盛り上がっていた。実際、平和の塔の完成式典には、被爆者は勿論、豊橋市長はじめ、あらゆる階層から二千人を越える人の参加があった。
 朗読劇「この子たちの夏 一九四五・ヒロシマ ナガサキ」は一九八五年が初演。被爆四十年にあたる年であった。演劇制作体地人会により企画された。構成・演出の木村光一氏が、遺稿や手記、詩歌など膨大な資料の中から、テーマを被爆した「母と子」に絞り、朗読劇としてまとめた作品である。初演から、毎年欠かさず全国で上演されていた。二〇〇四年時点では、全国三十六都道府県をまわり、上演回数は六八九回であると記録されている。被爆者の中には「この劇を見なければ死ねない。」という声すら上がっていた。
 豊橋でも、過去に二回、 一九八五年に文化会館で、 一九九三年に公会堂で公演があって、二回目は立ち見が出るほど盛況であった。出演する六人の女優は入れ替わりがあるが、どの公演も迫真の演技が観客の感動を呼び、評判を広げていた。
 二〇〇五年、豊橋演劇鑑賞会は、再び、地人会から上演依頼を受けた。前回よりも観客動員数を上回ることを目標に、 「この子たちの夏」公演実行委員会が立ちあげられた。委員長には、医師であり、豊橋ペシャワール会代表の渡辺のり子先生が就任された。更に、平和の塔建立に尽力した桜丘学園教職員組合も主催者として加わり、私も、その活動に深く関わることになった。豊橋朗読の会からも副実行委員長に戸田恵子さんが就任し、会員の全面的な協力を得ることになった。 下奥純子さん率いる豊橋親子劇場や「豊橋に原爆の火を灯し続ける会」の皆さんが実行委員になった。早くから準備が進められた。全力をあげて、チラシの配布やチケットの販売が進められた。桜丘学園父母の会の協力もあった。団体同士、 チケット販売を競い合う気持ちも強く、素晴らしいムードになった。
 初めての企画として、オーディションで、地元の女子高校生二人を出演者として選んだ。これには、若い世代にも会場に足を運んでほしいという狙いがあった。実際、マスコミが注目し、効果が大きかった。その中には、桜丘高校和太鼓部やボランティア部で活躍していた渡辺ゆきさんもいた。
 この公演に先がけて、出演する女優の一人、「山田昌さんを囲んでの集い」が企画された。文化会館で、戦争体験のある山田昌さんの講演を聞いた。私は、山田昌さんとの連絡係りを引き受けた。庶民的でおおらかな性格の昌さん。名古屋弁で明るいキャラクターとして有名な女優さんである。この集いの後も、しばしば電話をさせていただいた。取り次いでくださった天野鎮雄氏の「豊橋の先生から電話ですよJe言葉で通じるくらい、何回も何回もかけさせていただいた。
 その他にも、実行委員会主催の平和学習会が度々開催された。豊睦会の荒川来氏、茶納スミエさん、黒板一光氏、前田隆子さん、菖屋家隆氏らの被爆体験を聞いた。心をうたれた。安間慎氏からは、核兵器廃絶の運動の現状を聞いた。桜丘高校からは、高橋勇雄先生が平和の塔建立の経緯をテーマにお話をされた。
 こうして、平和を願う気持ちが高まる中、七月二十五日、公演の日が来た。大橋芳江さん、大原ますみさん、長内美那子さん、柳川慶子さん、山口果林さん、山田昌さんの朗読は素晴らしかった。そして、豊橋朗読の会の朗読歴十年の三人のメンバーと高校生二人の賛助出演メンバーが舞台脇で演出効果を高める役割を見事に果たした。公演は大成功であった。 公演後、豊橋演劇鑑賞会の大井運営委員長から、一般券一四三七枚、子供券九四枚、合計一五一一枚のチケット販売の報告があったとき、実行委員会は皆歓喜した。
 成功の第一の要因は、女優たちの迫真の演技である。初演から二十年、年齢は増しているにもかかわらず、そして、マイクを使用していないにもかかわらず、彼女たちの声は、会場に鳴り響いた。第二に、豊橋演劇鑑賞会の歴代の運営委員長である勝部樹義氏、中村長平氏、高木三郎氏、大井則生氏が皆類い稀な文化人であること。第三に観客の若年化を狙って、子供券をつくったことや地元の女子高校生に賛助出演してもらったこと。第四に渡辺のり子先生、戸田恵子さんに正副実行委員長をお願いして、充実した実行委員会が形成されたこと、第五に、平和教育を推進していた桜丘高校の平和の塔建立十五周年記念イベントの一環と位置付けたこと。第六に、この地域の平和運動の土台を築いている豊睦会のみなさんの切実な思いがあったこと。その存在感は格別なもので、実行委員会の活動を後押ししてくださった。市民が集うことにより、平和を守ろうという動きがさらに広まった。
 「この子たちの夏」は、木村光一氏の体力の衰えとともに地人会が解散したことにより、二〇〇七年、各地での公演に幕を閉じる。しかし、核兵器の廃絶を願う人々の熱情におされ、二〇一一年地人会新社が引き継いで復活した。今もなお、 公演は続けられ、若い世代にヒロシマ・ナガサキの記憶を伝える重要な役割を果たしている。私はそのような活動の一端に関われたことを誇りに思う。

2019年5月31日 記す



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