2019年12月25日
日々雑感 第十四話 及部十寸保
第十四話 「梶さんを偲んで」
梶さんこと梶原芳清先生と私は、同じ日に桜丘高校に初出勤した。 一九五九年四月一日。梶さんは女子部勤務。当時、 桜丘高校は男子部と女子部が別々の場所にあった。女子部は、東田の東郷町。私はそこからニキロ離れた牛川校舎の男子部の所属だった。梶先生とは、そのひと月前に行われた教育実習でお会いしたきり、話をする機会は全くなかった。それが、秋になって、教職員組合を作ろうということになり、男子部と女子部の合同会議がもたれ、再びお会いすることができた。
梶さんは四国生まれ。遠い愛知大学に入学された。当時、西日本では愛知大学の人気が高く、四国からも入学を希望する学生が多かった。
愛知大学の前身は東亜同文書院である。この学校は、一九〇一年、中国上海に、日本人を対象として設立された高等教育機関であるが、 終戦の一九四五年に、中国に接収されることになった。学長の本間喜一氏が中心となり、引き揚げてくる教授や学生を受け入れようと、旧士官学校の校舎を使用し、愛知大学を創立した。この本間学長は、 一九六三年、愛知大学の山岳部が、北アルプス立山連峰の薬師岳で遭難した際、「大学が潰れても、学生の命を守る。」と宣言して、世間の注目を浴びた。大学創立当時も、本間氏に憧れる学生たちは多かった。その学長のもと、集まった教授陣も、政治に対する熱血な姿勢をもっていた。
特に農民運動の指導者でもあった小岩井浄氏は、格別人気があった。当時、戦後の民主化政策が一転して、逆コースをたどり始めていたので、反動政治を批判する言葉は熱を帯びていた。若い学生たちの血は騒いだ。多くは学生運動に走ったが、梶さんは動かなかったそうである。教授陣の主張に共鳴して行動することはなかった。肝臓を患っていたからである。さらに、故郷を出るときに言われた母上の言葉を忘れなかったからである。母上はこのようにおっしゃった。
「愛知大学には、立派な先生がいらっしやるが、とかく左翼思想で、中退してしまう学生がいると耳にする。芳清は、 兄や姉の代わりに大学に行くのだから、途中でやめてしまっては困る。それだけは承知しておいてほしい。」
梶さんはこの言葉を守った。そうした態度は、大学を卒業しても変わらなかったが、たった一度だけ、行動を起こしたことがある。高校に勤務してから、毎日、地元の大企業三菱レーョンe高い煙突から黒い煙が出続けるのを見て、公害反対の運動に参加した。
一九五九年秋、梶さんと私は再会した。当時、桜丘高校は、封建的な職場だった。勤務年数の短い教師ばかりだった。 その中で、梶さんと私を含め二十代の青年教師は、生徒のために桜丘に骨をうずめる教師になろうと誓いあった。そんな私たちは七人の侍と呼ばれるようになった。七人はいずれも個性あふれるメンバーばかりで、反目もし、協調もしながら、 一人一人が自分の職場を作っていった。私は、梶さんから、きめ細やかな女子部教育を学び、梶さんは、大胆な行事を創り出す男子部教育の良いところを評価してくれた。
梶さんとの一番の思い出は、二人でコンビを組み、男子部女子部の壁を取り払ったことだ。桜丘高校をひとつにしたことだ。教職員が一致団結し、労使一体化を手に入れた。この偉業は梶さんなくしては果たせなかった。
しかし、その後、梶さんは、肝炎との闘いの末、亡くなった。 一九九二年のことである。病院のベッドの上でも、梶さんは、最期まで、桜丘高校のことを思い続けてくれた。英数科の躍進、ヒューマンカーニバルの大成功、桜丘中学校の再開、私たちが代わる代わる病室に訪れて報告するたび、自分がまいた種の実りを喜んでくれた。特に、高校受験が子供の発達を阻害していると憂い、中高一貫教育の実現こそ、日本の教育を救うと主張していた梶さんは、教育の充実するときが来たことを誰よりも喜んでくれた。そして、愛し続けた桜丘の未来を感じて、心を躍らせてくれた。
五月二十九日午前一時十五分、私たちの願いもむなしく、梶さんは帰らぬ人となってしまった。病院の看護師や関係者の多くが声をあげて泣き、別れを惜しんだという。病人といえば、医学の進歩の遅さをのろい、医師に不信を抱き、看護師に不満を抱くのが常なのに、梶さんは一言も愚痴をこぼさず、逆に労働条件の厳しい看護師さんたちを励まし続けたという。病院中が梶さんを深く敬愛していたと聞いた。梶さんはそういう人だった。決して八方美人ではなかった。むしろ信念を貫き通す人だった。でも、誰もが梶さんを頼りにし、梶さんは皆に愛された。私は弔辞によんだ。「桜丘に生き、 私学に尽くした君の一生を僕らは忘れない。」
亡くなる二日前、梶さんの急変を聞き、皆で駆けつけた際、梶さんは奇跡的に意識を取り戻した。最後まで梶さんは生きる意欲を見せた。病と闘う日々を送る今、梶さんのことを、私はたびたび思いだす。最期まで立派だった梶さんの姿勢を私は見習いたいと思う。
2019年6月9日 記す