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2019年12月27日

日々雑感 第十六話 及部十寸保

第十六話 「よさこい踊りここに若者がいる」
 私が桜丘に在職していたとき、修学旅行の一環として、「わらび座体験」があった。わらび座は秋田県仙北市の田沢湖の近くにある。ブナ林に囲まれ、テレビやラジオのない環境で、人間変革が可能かということをテーマに、三日間の合宿をする。規律正しい生活を送り、仲間と協力し合う生活態度を身につける。そのワークショップのひとつが、踊りの体験であった。みんなでソーラン節を踊る。「一生懸命踊ることがかっこいい」というインストラクターの呼びかけに、恥ずかしさを忘れて自分を表現し、仲間との一体感を味わう。たったそれだけのことなのに、生徒たちが見事に変革していく様を、私は修学旅行の場で何回も目にした。残念ながら、日常に戻ると、生徒たちは元の木阿弥になってしまうので、いつの間にかわらび座体験は修学旅行先から消されてしまったが、それでも、あの三日間の体験は、無駄ではなかったと、 私は今でも思っている。
 今、世の中のダンス熱は凄い。キッズダンスの教室があちこちにあると聞く。オリンピックの種目でも、二〇二四年の 。ハリから、野球やソフトボールに代わり、ダンスが登場するという。桜丘高校はダンスの強豪校で、世界大会の代表も狙えそうだ。若者のヒップホップ、主婦層に人気のフラダンス、サンバやフラメンコを習う人もいる。その中で、最近注目を集めているのが、「よさこい」である。
 よさこいは、高知県のよさこい祭りに端を発する。踊りを主体にした日本の祭りの一形態である。一九九〇年代に北海道札幌のYOSAKOIソーラン祭りが成功したことにより、そのノウハウをもとに二〇〇〇年代にかけて各地に広がった。
 そもそも、よさこい踊りが世に出たのは、一九五〇年。よさこい節の民謡で有名な高知県で、南国高知産業大博覧会が開催されたとき、披露されたのである。 一九五四年に、第一回よさこい祭りが開催された。比較的新しい祭りと言える。 一九九九年に、この祭りにおいて、「よさこい全国大会」が行われた。今は、八月九日の前夜祭から十二日の全国大会まで四日間に及ぶ大イベントが繰り広げられている。前述のように、全国に広まったのは、一九九二年の札幌がきっかけで、 その後、岡山、仙台、名古屋と続き、全国十六箇所で大きなイベントが開催される他、全国各地二百箇所で祭りが開催されている。その他にも、六月に行われた、豊川よさこいおいでん祭のように、規模は小さいが、よさこいを主体としたイベントは数限りなく存在し、市のお祭りには必ずと言っていいくらい、よさこいチームは参加している。それを後押ししたのは、二〇一一年の東日本大震災を機に発足した、全国組織「YOSAKOI—JAPAN連絡協議会」で、よさこいブームに火をつけた形となった。
 よさこいの踊りは、原則として、鳴子などを持って鳴らしながら踊るということになっているが、ルールの東縛が少ない。各チームが、オリジナルの曲を使い、和風にアレンジされた衣装を着る。チームによっては早着替えの工夫を凝らし、これが目玉のひとつにもなっている。そして、演舞のルールは、それぞれの祭りによって異なり、その自由さが、よさこいの魅力でもある。
 孫の陵平が、よさこいを始めたのは、浜松にある看護大学の四年生のとき。アルバイト先の病院の先輩看護師に誘われて、京都・名古屋・東京を練習拠点としていた、百六十名もいる「堀戯FU—JA」というチームの練習に参加するようになった。大学四年ということで、就職する病院も決定していたし、講義も減った彼は、週三回、名古屋の白川公園まで通っていたらしい。十人の仲間と通える楽しさもあり、最初は遊びのつもりで始めたが、だんだん夢中になっていったようだ。その努力が認められ、旗を持たせてもらえるようになった。旗衆という役である。いろいろな人から、親身になって指導をしてもらったという。このチームは、期間限定のチームだったらしく、孫が就職して一年目に高知のよさこい全国大会出場、三月に浜松がんこ祭りで二位入賞を果たした後、解散。よさこいの面白さがようやくわかりかけていた時期に、孫は自分の居場所を見失った。そんなとき、指導をしてくれた人から、「このまま辞めてしまうのはもったいない。」 と言われ、ある人から「京都で『和鷺』というグループを立ち上げるが、参加しないか。」と声をかけられる。彼は、仕事と趣味を両立する生活を選択しようと決心した。
 ここまで詳しくいきさつを書いたが、最初から、私が関心をもって見ていたわけではない。どちらかといえば、慣れない一人暮らしをしながらアルバイトと講義に追われていた孫に少し余裕ができ、度々豊橋に来てくれるのではと期待していたのに、よさこいを始めて、その時間がとれなくなった方に落胆する気持ちの方が強かったくらいだ。実際、一番、豊橋に顔を出してくれる回数は少ない。だから、今まで、じっくり話を聞く機会もなかった。私が、この話をまとめようと思ったのは、犬山踊芸祭(とうげいさい)がきっかけである。
 よさこいに夢中な子供をもつと、家族総出で応援に行くような話をよく耳にするが、娘夫婦は子供の世界に足を踏み入れないことをモットーとしているため、娘からも、よさこいの話を聞くこともなかった。特に、和鷺というチームに参加するようになってからは、看護師の激務から解放される休日には、浜松から、豊橋や実家のある稲沢は通り過ぎて、京都にせっせと通う日々。よさこいが我が家で話題に出ることもあまりなかった。
 火つけ役は、陵平の姉みずほだった。京都に住むみずほは、四月に行われた京都桜よさこいに弟のチームを見に出かけた。平安神宮をバックにしたり、二条城の中で踊ったり、二日間で二十万人もの人が集うイベントは、とても見応えのあるものだったらしい。陵平のチーム和鷺は、ここで大賞に輝いた。おかげで、インターネットに動画が公開され、私たちはその踊りを目にすることになった。また、カメラの好きなみずほが何枚も撮影してきてくれた。これに動かされたのが妻である。八月の日本ど真ん中祭りに和鷺が出演する。栄の会場まで足を運ばなくても、名古屋駅の前で見られるらしいという情報を得て、たった四分程度の踊りを見るために、暑い中、出かけていった。ご苦労なことだと半分呆れて私は見送ったのだが、妻は感動して帰ってきた。「りりしい踊り、雅な舞いを目の前で見ることができた。動画で見るのと生で見るのは大違いだった。迫力があった。おじいちゃんにも見せてあげたい。」そして、遂にその機会がやってきた。
 六月二日日曜日、犬山踊芸祭。雨が心配されたが、なんとかタ方までもちそうである。電車で行くことを購曙していたら、私のために、次女夫婦が車を出してくれることになった。犬山鵜飼い開きに、木曽川河畔で鳴子踊りを取り入れたのがきっかけで、地元で鳴子踊りのチームを集めた市民の祭りをやりたいと、有志二〇名が立ち上がったのが、祭りの発端である。二〇〇四年に犬山市制三十周年にあたり、第一回踊芸祭が行われ、地域の活性化につながった。第二回からは、 鳴子踊りのチームに加え、ヒップホップのチームも参加するようになったという。今年は第十九回。百チームほどが参加。 車が犬山に近づくと見物客が増えてきた。メイン会場は石作公園だが、観客数が多いと、車椅子では近くに寄れないのではないかという娘たちの考えで、パレードと駅前広場の演舞を見ることにした。
 実は、道路での踊りの撮影は、失敗経験がある。越中八尾おわら風の盆を撮影しに出かけたとき、道路に座ってフィルムー眼カメラを構えたのに、動きの速さについていけず、一枚も撮影できなかった。今回は、デジタル。枚数を気にすることはない。連続撮影でひたすら撮った。おかげで様になったのが相当できた。
 まずは、パレード。行列が私たちの前に来た。代表がロ上を述べる。堂に入ったものだ。踊りは動きが速い。コスチュ ームが独特である。黒をベースにした錦織りのような衣装に身を包んだ男性陣が、音楽に合わせて飛び跳ね始めた。白い扇を開いて、舞い始める。続いて、赤や水色の雅な衣装の女性陣の登場。男性と対になって優雅に舞う。見事なものだ。
孫はいつの間にか赤い旗を振り始めた。動きが揃っている。見栄えがよい。二回続けて見た。踊りの後、こちらに気づいた孫が手を振ってくれる。いい笑顔だ。
 この後、いくつかのチームを見た。背景用の大きな旗を支える者。鳴子をもって踊る者。次々と早着替えをするチーム。 威勢よく気合の声をあげる者。孫たちのチームは三十人ほどの小さなチームだが、百人くらいの大集団もある。さんさ踊りの着物姿のチームもいれば、小さい子供から大人まで、白いTシャツにジーンズ姿のチームもある。曲も、ノリのいい音楽もあれば、ご当地ソングのような曲もある。実に様々である。だが、皆、意気揚々と踊っている。
 駅前広場に演舞を見るために移動する。孫は最初大きな傘を広げる役だった。これが背景の代わりとなり、そこが、駅やスーパーの近くだということを忘れさせる。女性は鳴子をもって優雅に舞い、男性はそれを支えるように舞う。いろいろなチームを見ているうちに気づいたが、孫たちのチームは異色である。威勢がよいだけでもない、大人数で勝負するだけでもない、とにかく見せる。魅せる。まさに、自由なルールで開催されるよさこいの典型のような踊りである。よさこいには審査があるという。その祭りごと、評価されるものは違うらしい。それがまた、よさこいの持ち味だと思う。
 私は、初めて、よさこいを見た。陵平がいかに夢中になっているかも知った。そうなって、初めて、私は、どのように陵平がよさこいの世界に入っていったのか興味を持ち、定期的に通院している浜松の病院に行った際、時間を作ってもらい、話を聞くことにした。
 よさこいの世界に足を踏み入れるきっかけや、和鷺というチームに参加するようになった理由は前述したとおりだが、 それを後押ししたのは、お世話になった方々に恩返しをしたいという感謝の気持ちが始まりだったという。また、浜松から京都に戻る先輩看護師に一緒にやろうと誘われたこともあり、京都に通うことを決心したらしい。実際、土日に行われる練習に通うのは職業柄大変だったが、夜勤の前後を利用して、立ち上げ時は休まず通ったとのこと。メンバーはレベル e高い人ばかりだったため、かなりのスキルアップをすることができたらしい。神戸、浜松、京都、名古屋といろいろな祭りを体験するたびに、皆との一体感が増し、交流することも楽しみのひとつになっていったと陵平は話す。だが、看護師としても四年目となった今、実は練習にあまり通えていないらしい。だから、今回は踊り終えて、音とり、立ち位置など反省点がいくつもあるという。踊り始めがのりきれなかったというチーム全体の反省もあるが、自分自身の弱点も見つかったという。それを見つけて、ひとつひとつクリアしていくのが楽しい。困難に立ち向かうことが面白い。楽しさだけではもう満足できない。こんなに長く続くとは思わなかったと周囲の人からは言われるが、今は、なんとか仕事と両立して、もっともっと練習に通いたいと思っていると陵平は決意を語ってくれた。単なるストレス発散ではなく、人生に立ち向かっていくためのノウハウを学ぶ場所として、陵平は和鷺に通っているのだと思う。実際、どちらかといえば、話すことが得意ではなかった陵平が、私たちのために時間を作って一生懸命語ってくれたこと自体、大きな成長を感じた。自説を展開することに、感銘すら、私は覚えた。
 私は、犬山に行った話、そして、孫の陵平から聞いた話を、マッサージに来てくれる富田さんに話した。そして、そのとき、私たちが同時に発した言葉は「ここには若者がいるー」だった。私の行くデイサービスにしろ、病院にしろ、写真を出展する亜鳥絵にしろ、高齢者ばかりだ。富田さんも職業柄同じ。でも、私は、久しぶりに集う若者たちを目にした。 そして、 一生懸命に語ってくれる若者に会った。未来がある。

2019年7月1日 記す



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