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2020年1月6日

日々雑感 第十七話 及部十寸保

第十七話 「白い御飯のおにぎり」
 新居の関所には、全国で唯一現存する建物がある。元気だった頃、私はこの辺りを三時間余りかけて歩いた。そのときに眺めた浜名湖の波は静かで、タ陽が特に美しかった。この関所に入ると、陽の射す縁側に、羽織袴姿の五体の侍人形が正座している。見物客もちらほらやって来る。そのうちの一体の羽織には、姓は及部、役は足軽と縫い込まれている。足軽というのは、最下級の武士である。ここにある人形は、関所の役人で、東田の二連木城から出仕した侍を模したものである。
 今、豊橋に残る城は、吉田城である。吉田の町は、「吉田通れば、二階から招く。しかも鹿子の振袖で。」と歌われたように、街道有数の繁華街であった。また、秀吉に仕えた池田輝政が城主となった折には、近代都市としてのまちづくりも行われた。この吉田城が最も怖れた存在が、二連木城であった。それは、吉田城の門が、二連木城の方角である東を向いていることでもわかる。その二連木城とはいったいどんな城であったのか。実は、吉田城とは比べものにならないほど、 狭い城であった。しかも、現在は堀しか残っていない。しかし、この城は、田原を拠点とする戸田一族のサテライトであり、吉田城の勢力が増大しないように見張る役割を持っていたのである。ちなみに、この二連木城跡は、その後、大口公園となった。梅の古木が美しい。
 その二連木城の足軽であった及部一族は、人形に名前が残るくらいだから、足軽の中では実力者だったようだ。しかし、 二連木城の廃城とともに、玉川一帯に移り住んだ。その子孫に、及部富雄という和田の小地主がいた。富雄氏の長男は、 私の従兄弟。よく面倒を見てくれた。
 ある日、従兄弟の兄さんは、三里の道を歩いて、私の家に遊びに来た。ちょうど母親が留守をしていたので、それをよいことに、私たちは、私の通う羽根井小学校の校庭に遊びに行った。私が小学校五年生のときのことである。校庭には、 二種類の高さの鉄棒があった。当然、兄さんは高い鉄棒に飛びついた。何回か前回りをした後、大車輪という大技に挑戦し始めた。彼は鉄棒の名手だった。空中高く円弧を描く従兄弟の姿に、私は見とれた。従兄弟の真似をして、私も地面を強く蹴ったが、全く駄目だった。
 この日、兄さんは少し変だった。ロを真一文字に閉じ、一言もものを言おうとしなかった。鉄棒を降りると、私のところに近寄って、表情を硬くして、「俺はこの先いつ会えるか、わからん。十寸保君も自分のように鉄棒が上手くなってほしい。」と言った。私の母親に会えないまま、兄さんは月の光を浴びながら夜道を戻っていった。寂しそうだった。私は母に兄さんの様子を報告した。母はしばらく考えていたが、やがて、このように言った。「きっとお別れに来たのよ。」
 事実はそのとおりで、数日後、兄さんは出征して南方の戦場に行った。私は一人残された寂しさに耐えようと、鉄棒の練習に励んだ。それから間もなくして兄さんの戦死の公報が届いた。公報に続いて、遺留箱が届いた。しかし、中に、「及部上等兵おめでとうございます。」と書かれた紙片が一枚入っていただけだったらしい。他には何もなかった。それを聞いて、私の頬に涙が流れた。私は一層鉄棒の練習に励んだ。しかし、疲れからか、気の緩みからか、私は鉄棒から落ちた。 遠心力が働いて、私の体は飛んで、地面に激しく落ちた。体を打った。顔から出血。私の頬はたちまち赤く染まった。それを見た級友たちに馬鹿にされた。五年生にもなって前回りができないのは他にいなかったからだ。担任は、「身体髪膚これを父母に受くあえて段傷せざるは孝の始めなり」と言った。父にひどく叱られた。しかし、私は更に鉄棒の練習をした。前回りはなんとかできるようになった。
 大本営発表は国民を煽るような放送だったが、戦死者は増える一方で、物資が少なくなっていった。配給制度になり、 玄米を一升瓶で突き、雑炊にして食べた。隣の家が配給元で、裏からこっそり分けてくれた。ありがたかった。しかし、 どんどん生活は苦しくなっていった。鉄棒など練習している余裕は、もう私にはなかった。
 一九四五年の六月が来た。我が町豊橋も焼夷弾攻撃をうけた。豊橋戦災復興誌は「空襲は、営々辛苦築き上げた父祖数百年の郷土豊橋の殆どを一夜にして灰燈に帰せしめた。」とある。豊橋大空襲の日、父は在郷軍人会の活動で、負傷者を助けようと、空襲警報発令と共に家を出たので、行方がわからなかった。母と私は、弟を連れて逃げた。私たちは土手に隠れた。グラマン機からの機銃掃射でブスブスと弾が突き刺さる。母は必死にお経を唱えた。周囲の人が「声が大きい。」 と文句を言ったが、母は取り合わなかった。地獄にいる思いだった。夜が明けて見た街の風景は一変していた。遠くに額ビルだけが高くそびえていた。
 とぼとぼと焼け跡に戻った。父もおらず、不安でいっぱいで、これからどうすればいいかと思案していたところに、富雄伯父さんが、白い御飯のおにぎりを持って見舞いに来てくれた。地獄に仏と、母は何度も何度も御礼を言った。おにぎりは美味しかった。家を焼け出された私たちは、伯父さんの家に身を寄せることになった。その道すがら、豊橋二中(現在の青陵中学校)付近で、父と再会できた。そのときの喜びは忘れられない。
 その後、両親と弟は、母親の実家であるお寺に移った。しかし、身体の弱かった私は、そのまま、和田の富雄伯父さんの家に残った。亡くなった従兄弟の部屋で寝泊まりさせてもらった。
 夏になった。豊川の海軍工廠がB29の攻撃で壊滅した。私たちは遠く大清水から、大量の黒煙が次々に昇るのを見ていた。広島、長崎に人類初めての原子爆弾が落ち、大量の犠牲者を出した後、遂に、日本はポツダム宣言を受諾、終戦となった。工廠では、幼馴染のけんちゃんが焼死した。私は老津まで渥美線に乗って、お悔やみに行った。
 両親が移り住んだ寺では、焼け出された人々を多数収容していた。その結果、赤痢が大流行した。もし、病弱な私が一緒だったら感染していたに違いない。和田で、白い御飯のおにぎりを毎日食べることができた私は、元気に、終戦の夏を過ごすことができた。
 戦後も、私は和田に留まらせてもらい、豊中(現在の時習館高校の場所)まで通った。その道のりは、片道三時間かかった。しかし、その辛さよりも、毎日白い御飯をいただける幸せの方が大きかった。御飯と長距離通学のおかげで、身体が強くなった。現在、私は、八十六歳。パーキンソン病に悩みながらも、なんとか暮らしている。父は五十九歳、母は六十四歳、弟は六十二歳で逝去した。長くは生きられなかった。私がこうしていられるのも、鉄棒と白い御飯のおかげだと思っている。

2019年7月14日 記す



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