2020年1月7日
日々雑感 第十八話 及部十寸保
第十八話 「小さな旅、されど大きな喜び」
七月二十日から翌日にかけて、「老松会」の恒例の行事が浜名湖レークサイドプラザで行われた。レークサイドプラザは家から車で二十五分の場所。とても近い。昨年の開催場所だった三谷温泉も私にとっては近い場所であり、小さな旅である。
このように書くと、はて、老松会とは何だろうと思われる方も多いと思う。「年を重ねた松」を名に持つ、この会は、 実は、私の妻の一族の親睦会の名前である。
私の妻の父、つまり、義父の岩瀬義三氏は、教員時代を奥三河で過ごした。退職後、子供の教育のために、豊橋の街に出てきて、縁あって東田の近くの老松町に居を構えた。子供たちが結婚し、家を離れてからも、盆や正月には親睦の場が設けられ、大人も子供も大いに交流を楽しんだ。歌の上手な一族で、義兄のギターに合わせ、兄弟姉妹、年長の甥・姪がよく歌を歌っていた。しかし、義三氏の死後は、そういう交流が途絶えていった。
また、皆が集まるようになったのは、悲しい場であった。東京から豊橋に転任されてきた鈴木照隆氏という判事さんがいらっしゃった。義三氏の次女、つまり私の義姉は、 一家で、長いこと、この方のお世話をされていた。判事さんも、親身になって、岩瀬一族の相談相手となってくださり、皆の精神的支柱であったが、思いがけず、病没された。私たち一族は、急な出来事に皆涙しながら、葬儀に参列した。その後、義三氏の四男と、岩瀬家を継いだ次男の二人が相次いで亡くなった。二人ともまだまだこれからという年齢だった。悲しかった。残念なことに、葬儀が、親族の集まる唯一の場所になってしまった。「悲しいことばかりで集まるのはたまらない。以前、老松町での集いのときには、皆の笑顔が溢れていた。もう一度、あの楽しいひとときを復活させるわけにはいかないだろうか。」しかも、岩瀬家には五人も男子がいたのに、五男一人になってしまった。残された姉妹四人はなんとかして励ましたいと思った。
「もう一度皆で集まる場所を持ちたい」血はつながっていないけれど、法事の会席の場で、私は親族に提案した。皆も共感してくれた。「老松町に住んでいたから老松会と名付けよう」と提案したのは、義三氏の内孫で、 一番年長の姪だった。暗い話題ばかりロにしていた私にも皆にも、心の中に灯がともったようだった。
第一回目の親睦会が開催されることになった。一九九三年のことである。舘山寺のサゴーロイヤルホテルでの開催だった。私の妻の兄弟姉妹、その子供、孫、総勢五十人を越す宴会となった。義姉たちが亡くなって開催を見送った年もあるため、今年で二十五回目。毎回、五十人前後が集う。幹事は回り持ち。開催場所も変わる。妻たち兄弟姉妹のふるさと奥三河で開催されたこともあるし、我が家が幹事のときは、西浦や吉良で行ったこともあった。一次会で家族の近況を報告。 結婚や出産で新しいメンバーが毎年増えている。二次会は、 一室大きな部屋を借りて、大人も子供も交流をする。
私の一番上の孫が三歳のときに始まった、この親族会。「老松会」という名前とともに成長してきた六人の孫は、幼稚園に通いだすと、通園するバスの中で、友達に聞いた。「あなたのお家の老松会はいつなの?」帰宅して彼らは意外そうに私の娘達に伝えた。「みんなのお家には、老松会はないんだってー」習い事の先生から「老松会って何ですか」と質間されたこともあるらしい。「老松会があるからピアノの練習ができない」と三人揃って答えたという笑い話が今でも残る。 老松会の名のもと、修善寺や伊豆に出かけた孫たちは、花火を見たり、イルカのショーを見たり、夏の思い出イコール老松会であった。私の甥や姪が皆子供好きで、遊んでくれるのがとても嬉しかったそうである。成長して、受験や部活動や仕事で出席できなくなったときには、本当に残念がった。この夏、私の次女のお男さんが急逝された。喪中ということで、 さすがに老松会は欠席したのだが、生まれてから毎年欠かさず参加してきた孫たちは祖父を失くした悲しみを抱えながらも、老松会欠席をたまらなく悲しんだという。
今年も小学生低学年や幼稚園児の子供たちは、おじいちゃん・おばあちゃんとなった私の甥や姪、そしてその息子や娘たちと、プールや花火を楽しんだという。つまり、妻の兄弟姉妹から言ったら、ひ孫である。いまどき、ひ孫同士が交流することなんて、おそらくないだろう。でも、彼らは毎年参加して、家族紹介の場で、好きな食べ物や将来の夢を語ってくれる。今年は、新幹線の車掌さんや、管理栄養士や、宇宙物理学者といった職業が、小学校低学年の子から飛び出して、 会場を沸かせた。また、甥姪の子供が結婚すると、老松会の場が配偶者披露の場になる。義姉たちが亡くなって悲しい別れもあったが、老松会メンバーはどんどん増えている。
このように書くと、私自身も、この老松会を心から楽しんできたかと思われるかもしれないが、実はそうではない。始まった当初は元気だったので、早朝にこっそり起きて、カメラと三脚を抱えて出かけ、撮影をしたものである。私にとっても、孫たちと同じように、老松会は、いろいろな風景に出会う場であった。家族近況紹介では、職業柄、マイクを離さず、家族から「いい加減、切り上げなさい」と合図が来たこともあった。カラオケも必ず歌い、楽しんだ。しかし、パー キンソン症候群となり、思うように動けなくなってからは、出席することが憂諺になることもあった。杖での参加から、 歩行器、そして今では車椅子と、利用する器具が変わった。カラオケも遠のいた。人前で話すことなんてとてもできず、 家族紹介は、ここ十年程娘に代行してもらっていた。老松会にカメラを持っていくこともなくなり、妻がホテルの窓からの風景を見て喜んでいても、共感する余裕すら、いつのまにか無くなっていった。
今年も車椅子での参加である。家から車に乗るだけで、かなりの体力を要する。ホテルに着いたときには、すでにヘトヘトになっていた。仮眠をとって親睦会に参加。ところが、会場は宿泊棟から少し離れた場所、しかも地下。ェレべータ ーがない。数年前にこの会場を利用した時には、杖で歩けたのだが。すると、ホテルのスタッフが車で運んでくれるという。幹事の甥がそのように打ち合わせをしておいてくれたのだ。さらに、スタッフの人たちが車椅子ごと会場まで階段をおろしてくれた。姪の子供や孫も一緒に手伝ってくれた。私は本当に感動した。
会場には、一週間前には急に入院し、皆を驚かせた義姉の姿があった。老松会に参加するために、体力をつけ、無事退院してきたとのこと。脊柱管狭窄症の手術を受け、参加を諦めていたのに、必死にリハビリをして、外泊許可を取り付け参加した甥の姿もあった。股関節を痛め、松葉杖を二本使いながらも名古屋から来た甥の姿もあった。私の中に急に何か衝動が湧いた。
私は十年ぶりにマイクを握って、人前で話すことができた。病気と闘う近況、妻(の感謝、そして、老松会を長く続けていってほしいという願いを話すことができた。後から甥や姪が感動したと言ってくれた。皆の力を借りて、元気を出せた。そして、そんな私の姿を見て、また元気が出たと言ってくれる人がいることが嬉しかった。孫たちの力を借りて、カラオケも一曲歌えた。自信がついた。
翌日、起きて驚いた。部屋は湖に面していたのだが、対岸の山から湖から霧がのぼり、湖面に風紋がたち、目を瞳る光景が広がっていたのだ。おそらく、過去の老松会でも同じような光景は目にしていたのだろうと思う。でも、昨夜、何かが自分の中で変化したから、自然を見つめる目も変わったのだと思う。私はカメラを持っていないことを後悔した。妻のスマホを借りて夢中になって撮影したが、慣れないため上手くいかなかった。残念である。でも、初めて、スマホで撮ろうという気持ちになったことが自分でも驚きであった。
ひとつ変わると、すべてが好転する。この小さな旅で、私は大きな喜びを得た。プールで遊んだ子供にも、育児論を相談しあった新米パパやママたちにも、自分の母親の従姉妹や祖母や大伯母と、輪になっておしやべりを楽しんだ孫にも、同世代交流を楽しんだ孫にも、親の介護について共感しあった娘たち世代にも負けないくらい、私は、老松会を楽しんだのである。
幹事の細やかな気配りもあり、今年の老松会もまた大成功であった。ここが楽しいから、皆が集まる。皆が集まるから、 また嬉しい。老松会ができてから、二人の義姉が亡くなったが、いずれも九十を越えてからだった。義兄も義姉も、今、 九十を越える。皆、様々な悩みはあるが、それでも、長生きしている。町名からヒントを得た老松会は、いつのまにか、 人々に元気をくれる長寿の会になっている。来年の老松会が今から楽しみである。
2019年7月27日 記す