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2020年1月9日

日々雑感 第二十話 及部十寸保

第二十話 「反核・平和を追い求めて」
 生涯、何をモットーとして生きてきたかと間われたら、私は即座に、「核兵器をなくして、平和を守ること」と答える。
 第二次世界大戦の末期、広島・長崎に投下された二個の原子爆弾によって、 一瞬のうちに、大都会が崩壊し、二十万人を越える犠牲者が出た。人類が初めて経験した核爆発は、絶対に行われてはならない暴挙であった。核兵器と人類は共存できないことを示している。
 今をさかのぼること六十数年前の一九五四年三月一日、ビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験で、操業中の日本の漁船八五六隻が被災した。第五福竜丸が母港焼津に帰港後、乗組員は原爆症の疑いと診断される。東京・大阪などの魚市場に送られたマグロから強い放射能が検出された。死の灰への恐怖から抗議運動が広がり、各地で平和集会や市民大会などが開催された。自発的に署名活動が湧きおこり、この運動の中で、七月二十八日に、「原爆を許すまじ」という歌が発表された。東京大井の町工場の労働者、浅田石二さんが作詞、都立日比谷高校の社会科教師、木下航二さんが作曲したものである。八月八日、原水爆禁止署名運動全国協議会が結成された。当時、「帰郷運動」という活動があった。東京などの大学に通う学生が、帰省する機会を利用して、地元の青年たちと勉強会を持つという試みである。豊橋でも開かれていた。読書会や音楽会に交じって、原爆について学ぼうという会も開催されていて、私はそれに参加していた。
 同年の九月二十三日、第五福竜丸の無線長久保山愛吉さんが死去。遺骨が焼津駅に到着した際、駅から自宅まで、雨の中、市民三千人が黙とうして迎えたという。この計報は、更に全国の署名活動に拍車をかけ、年末には二千万を越える署名が集まった。
 一九五五年一月、原水爆禁止署名運動全国協議会第一回全国会議が東京で開催され、原水爆禁止世界大会を広島で開催するための呼びかけをしようと決定された。そこから様々な準備が行われ、八月六日、第一回の大会が開催された。この時点で、三千万を越える署名が集まっていた。大会には、十四か国・三国際団体から五十二人の海外代表と、四十六都道府県・九十七全国組織から二五七五人の国内代表が参加した。九月に、原水爆禁止日本協議会(原水協)が発足した。
 第二回の大会は、一九五六年、長崎で行われた。最近になって知ったことだが、豊橋からも、勝部樹義氏が参加。彼は、 反核平和のレコードを多数購入されたらしい。今も所有されているとのこと。また、この大会で日本原水爆被害者団体協議会が結成される。
 この前年より、東京・立川では米軍基地拡張のため、先祖代々の土地を追われることになった農民たちの抵抗運動が始まっていた。そして、一九五六年十月、全国から闘争支援のため集まった学生・労働者のデモ隊と警官との衝突が起こつた。ここで、デモ隊から自然に「赤とんぼ」の歌が沸き起こったというのは有名な話である。この頃、豊橋では、帰郷運動を土台に、豊橋地方学生連絡協議会が発足し、私もそのメンバーとして活動していた。
 一九五七年、私は、その連絡協議会の議長になっていた。全国に巻き起こる原水爆禁止を求める運動を、豊橋でも広めたいと思い、毎日のように街頭に立って、豊橋原水協の結成と募金を呼びかけた。私と行動を共にする仲間が徐々に増えていき、毎日多額の募金を集められるようになっていった。この募金をもとに、第三回原水爆禁止世界大会に、豊橋からも代表を送りたいと考え、代表団の募集を行った。三十名の地区代表が決まった。
 八月、東京で行われた第三回世界大会は、盛大なものだった。さしも広い会場に、立錐の余地がないほど、各地の代表が集まった。この大会の参加者数は過去最高と言われている。討議内容も充実していた。特に分科会が活発であった。砂川闘争以来、各地の米軍基地反対闘争にも人々の関心が高まっていた。私は県代表として、小牧基地闘争の話をした。平和を求める運動の広がりを感じた大会であった。
 翌一九五八年は、画期的なことが起きた。六月二十日、平和活動家であり僧侶である西本あつし氏が、広島原爆記念碑の前から、八月に行われる第四回世界大会にむけて、たった一人で行進をスタートさせた。西本さんは「歩くという人間の最も初歩的な行動によって、人類的課題である原水爆禁止を訴えたい」と語った。その平和行進への国民の共感は日に日に広がり、行進への参加者は増えていった。
 行進は豊橋も通った。土砂降りの中、大村町で、仲間と共に、行進を迎えたことを覚えている。およそ五百人くらいの方々の宿泊先や食事などのお世話をした。翌日は快晴。行進は、二川、そして湖西を通過して東京に向かう。私は小型宣伝カーに乗り並走し、マイクを握った。「皆さん、こちらは広島から東京まで千キロ歩く平和の使徒です。世界平和のための行進です。どうか応援してください。」私の呼びかけに、人々は拍手したり、お辞儀して応えてくれた。この平和行進は、東京に到着した際には、一万人を越える大規模なものになっていた。また、広島から東京までの行進参加者は、のべ百万人を越えたという。この第四回世界大会では、「核武装禁止宣言」が採択された。
 一方、 一九五七年三月、岸内閣が発足。六月に訪米し、日米共同声明を発表。その後、 一九五二年に発効された日米安全保障条約の見直しのための交渉が行われることになったが、これは改定ではなく改悪であると、一九五九年、安保闘争が始まった。三月に安保改定阻止国民会議が発足。日本原水協も参加し、安保闘争は、核武装阻止・民主主義擁護・勤務評定闘争・警職法改悪反対の諸運動や原水爆禁止運動を土台にしつつ、市民各層を結集して展開されていくことになる。 一九五九年に広島で開催された世界大会では、核と安保の問題が討議された。老いも若きも、文化人も主婦も労働者も学生も、皆、「安保反対、岸退陣」を叫んだ。
 一九六十年一月には、私も羽田に駆けつけた。岸首相らが渡米するのを阻止するためである。五月十九日、自民党単独で新安保条約が強行採決される。一か月後には自然成立してしまう。これを阻止するための運動が起こった。安保批准阻止・岸退陣・国会解散・アイゼンハウアー来日阻止を求める全国第一波ストライキが行われた。私も国鉄ストに参加した。 名古屋駅のコンコースに座り込んだ。
 六月十五日、全国第二派ストライキ。残念ながら私は豊橋にいたのだが、国会にはデモ隊が乱入、その衝突で、樺美智子さんが圧死。抗議行動が起こった。六月十七日、私も三百人の労働者と共に叫んだ。岸退陣を求める声が全国津々浦々に高まった。六月十九日、新安保条約、自然成立。岸首相、辞意表明。二千を越える地域共闘組織、二十三次にわたる統一行動と、三回の政治スト、二千万に及ぶ請願署名を巻き起こした安保闘争は、この年の十月に終結する。
 安保闘争で集結した人々の脱力感は大きかったが、幸いにも、私は、高校に勤務していたので、教育活動に専念した。 当時の反戦運動として、ベトナム戦争に反対する「ベトナムに平和をー市民連合」という組織が作られたが、私は雑誌の購読をしただけで、直接参加することはなかった。ただ、生徒たちに平和を願う気持ちは伝えたいと常に思っていた。安保条約は十年後の一九七〇年に見直されることになっていたので、その時には、自分の高校だけではなく、他校の生徒たちからも呼ばれて、政治情勢の話をした。
 一九七〇年代には、勤務先で、教職員組合を結成するメンバーの一員となった。その会議の場では、平和問題をとりあげた。平和を願う気持ちを、生徒だけではなく、学校全体に広げていきたいと考えたからである。
 一九八〇年代に入って、地域での平和活動に参加するようになった。うたごえ活動もその一環である。その活動の中で、 藤村記一郎氏と出会った。合唱構成「ぞうれっしゃがやってきた」が初演されたときには、東京から名古屋に特別列車が走った。その列車に私も乗り込んだ。うたごえの祭典の実行委員長にもなった。豊橋空襲を語りつぐ会の発足時にも立ち会った。「平和都市を目指そう、豊橋市民展」が開催された折には、豊橋在住の被爆者の方々と知り合うこともできた。 毎年三月一日のビキニデーには、焼津の弘徳院の久保山さんの墓参に参加した。
 そういった活動が実を結んだのが、平和の塔の建立である。一九八八年、原水協は、山本達雄氏が広島で採火し、福岡県八女郡星野村に持ち帰った原爆の火を、第三回国連軍縮会議に持ち込もうと発案する。そして、その前に、この火を国内行脚しようと企画した。豊橋にも、この火は運ばれてきた。何人かの人が、自宅でなんとかこの火を灯そうと考えたが、 現実的には管理が難しく、桜丘高校に打診されてきた。すでに平和教育が始まっていた桜丘は承諾、星野村の許可をもらい、 一九八九年、巨大な石の塔に、火は灯ることになった。塔を仰ぎ見る生徒たちの心に、平和を願う気持ちが育った。 私たちは、藤村氏にお願いして、合唱構成「遠ざかるまい、この火から」を作曲してもらい、高校の体育館で披露した。 そこには、被爆者の方々や、この地の平和活動に取り組まれる方々も同席してくださった。指揮は、小杉員知子先生にお願いした。その後も、平和行進の参加者など、塔の見学者は後を絶たない。この火を守るために、「永遠に火を灯し続ける会」や「平和の塔委員会」がつくられた。建立三十周年を記念して、二つの会は、十月十四日、イベントを共催する。
 二〇〇三年三月、「イラクのフセイン大統領が大量の破壊兵器を隠し持っている。」という理由で、アメリカはイギリススと共に、圧倒的武力を用いてイラクに侵入した。(後に、それは、デッチ上げ情報と判明する。)国際世論は、反戦で盛り上がった。直ちに、私は、「戦争と平和を考える市民の会」を結成して、活動を行った。広島・長崎での、たった一発の原爆による大量殺りく戦争。それがまた起きようとしている。被害にあうのは、一般市民であり、小さな子供たちである。一九九一年の湾岸戦争の際、アメリカ軍は劣化ウラン弾を落とし、これは、子供たちに精神障害を引き起こさせていた。平和を訴える活動ができないかと考えた。
 一番最初に動いたことは、この地方の文化人であり、ヤマト楽器の社長であった石田孝太郎氏に音頭をとっていただき、 音楽会を企画したことである。渡辺さん、豊田さん、藤本さん、小坂さん、藤村さん、大岩さん、そして私で構成する実行委員会は「平和を願ういのちの音楽会」を、五月二十七日、豊橋市民文化会館で開いた。第一部が、豊橋を代表する演奏家の楽器演奏や独唱会、第二部が、うたごえの団体と豊橋を代表するTFM合唱団の演奏。出演者にはボランティアで出ていただき、千円の入場券は、イラクの子供たちの医療・教育・福祉のために寄付するという主旨。演奏会は大成功で、 イラクの子供たちを救済する活動を行うセーブ・ザ・チルドレン(小野真理子さん主宰)を通して、収益金を全額寄付した。この音楽会は、その後、毎年開催されている。私が病を得てからは、ヴァイオリニスト大竹広治氏が引き継いでくださり、今年も開催された。この地に、音楽を通して平和を訴える活動の種まきに自分が関われたことを今も誇りに思う。 尚、この音楽会には、毎年、桜丘高校の合唱構成「遠ざかるまい この火から」でお世話になった小杉先生も、「合唱劇 『カネト』を歌う合唱団」を率いて出演していただいている。感謝している。
 二〇〇四年、私たちの「戦争と平和を考える市民の会」は新聞に意見広告を掲載する運動を提起した。「自衛隊のイラク派遣に反対する」という意見広告なのだが、この形式の運動は当地では初めてであった。私たちの呼びかけに、千人を越える市民からの一ロ千円の寄附が寄せられ、二月四日に掲載された意見広告には九五二名の氏名が載った。
 劣化ウラン弾による放射線障害の取材を続けていたフオトジャーナリスト森住卓氏の講演会や写真展も企画した。中村長平氏ら五人が、豊橋市民文化会館で、イラク問題について討論をするパネルディスカッションも行った。愛知大学の鈴木教授に、中東問題について話をしていただく機会も持った。森住卓氏・久保田弘信氏・高遠菜穂子さんらフオトジャー ナリストの写真展も行った。
 二〇〇五年には、陸上自衛隊の豊川駐屯地からのイラク派遣に反対する声もあげた。池住義憲氏の自衛隊イラク派兵差止訴訟の活動にも共鳴した。その前年、井上ひさし氏・梅原猛氏・大江健三郎氏らの呼びかけによって、第九条を含む日本国憲法の改定阻止を目的として「九条の会」が結成されたが、この地にもその活動を繰り広げたいと、「東三河九条の会」の旗揚げにも関わった。
 平和活動を始めて六十年以上の時を経た。平和の尊さと、人の命の重さを、私は語り続けてきた。そして、こうしてふり返ってみると、私が、いかに多くの人と出会い、いかに多くの人+に支えられて活動を行ってきたかがわかる。そのことに感謝しつつ、核兵器のない世界が実現することを心から願う。

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