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2020年1月15日

日々雑感 第二十三話 及部十寸保

第二十三話 「山との出会い5本宮山友の会」
 退職してしばらく経った頃から、私は体調を崩し始めた。気分が落ち込んでいる私を、桜丘の元職員中神淑子さんと、 父母の会の役員をされていた福井静穂さん、高柳京子さん等が心配して、本宮山に誘ってくださった。
 本宮山は、この地方で、最も高い七八九mの山であることもさることながら、眺望もよく、その上、起伏に富み、登山が楽しくなるような山である。最近では、登山ブームでもあるので大変人気があって、銀座並の賑わいだそうだ。
 一九九四年、三人に誘われて、本宮山に登った。その時点で、新しく発足する「本宮山友の会」に三人は入会することが決まっていた。頂上近くの食べ物やの店主が会長だと聞いた。会ってみたら、なんと、私の教え子今井誠君だった。彼は高校生の時、走るのが速く、カモシカの足を持つと言われていた。彼が「先生も、会に入れよ。」と言うので、私は未経験の山の世界に飛び込んだ。以来十五年、登山で、私は若々しくなり、第二の青春時代を迎えることになった。
 本宮山友の会は、会員二十五名でスタート、第一回山行の予定は奥三河の明神山だったが、雨で中止、山梨の王岳が初回登山となった。八月二十二日のことである。王岳はその名のとおり、王様の風格をもった堂々とした山だった。眺望も素敵で、山野草も豊富だった。これについては中神さんの山行記を紹介したい。
 「二千m級の山々に見られるピンク色の小さくて可憐な風露草を始め、あざやかなオレンジ色の節黒仙翁(せんのう)、あたり一面にほのかな淡い香りを放つ葛(くず)の花も満開、つる人参、水引草、秋のきりん草、ほととぎす、明神山でもたくさん出会った球紫陽花、そして花の形が帆かけ船を釣り下げたように見えるピンクの釣船草、山鳥兜(とりかぶと) そしてあけびはもう沢山の実をつけていました。山登りの楽しみのーつにこのように多数の花花に出会うこともあると思います。」
 さて、王岳登山の印象だが、危険防止に皆で手を繋ぐ、これが初めての経験だった。居平さんが、慣れない私の手を、 しっかりとつかんでくださったのだが、小さな柔らかい手で、ドキッとしたことを覚えている。
 忘れられないのは、十一月十八日、一六二四mの奈良代山登山である。御大、梅村洋一氏がご同道くださった。梅村氏は同僚であり、教え子であり、卓球の仲間だったが、実は、彼は豊橋山岳会の会長というスター的存在だった。国内外の山について、面白おかしく話してくださった。会員は皆大喜びだった。
 十二月十日、本宮山の沢登り。その頃、平和活動で多忙であり、ウオーキングもさぼりがちであった私は不安だったが、 同行してくださった会員の方たちがいろいろと気遣ってくださり、休み休み登ってくださった。なんとか奥の院にたどり着き、そこから見た東三河の平野を一望した。絶景に驚嘆の声をあげた。無事に登ることができてホッとした。
 翌年四月十日、静岡の川根にあるタ日峠(九六六・七m)に行った。そこから、南アルプスの黒法師岳・光岳・聖岳が見えた。とても景色がよかった。
 その後、私が復活できたのは、 一九九六年八月三十一日の北設楽の茶臼山登山である。茶臼山は一四一五m。その後、 撮影には何回も訪れた茶臼山であるが、歩いて登ったのは数少ない。十月十六日に訪れたのは、静岡の水窪川源流の麻布山。ここには麻布神社の奥宮跡がある。麻布の名前の由来は、江戸時代に江戸の麻布区に住む信者が命名したからだと言われる。 一六八五m。針葉樹の緑の中に、モミジの赤、ブナの黄色など、紅葉が見事であった。
 十一月十二日には、静岡と山梨にまたがる毛無山塊雨ガ岳(一七七一m)を目指した。A沢貯水池に到着した。ここは、 朝霧高原で暮らす人々の大事な水がめである。振り向いたら、新雪をまとった富士が見え、神々しかった。この後、私たちは四つ辻で直進コースを選んだが、これが間違いで、再び貯水池まで戻ることになった。富士を眺めながら、なんとも中途半端な気持ちで昼食をとったことを覚えている。
 一九九七年一月二十五日、遂に雪山に登る機会がやってきた。それは、滋賀県の湖北、呉枯ノ峰である。(五三一・九 m)初めて電車を利用した。五、六十センチの積雪の中、転びながら、歩いた。真っ白な雪や樹氷が見事だったが、それを眺める余裕はなく、黙々と前の人の足跡を見つめて登った。頂上にやっとの思いで到着したが、その後、冷たさで体が硬直し、大変だった記憶がある。三月八日、静岡の愛鷹連峰、越前岳に登った。一五〇四m。ブナやナラなどの自然林の中を辿った。
 この年の大晦日、突然の悲報が私たちを襲った。南アルプスの北岳(三一九二m)で梅村洋一氏が表層雪崩に巻き込まれ亡くなったというニュースだった。報道され、多くの方が会葬された。
 翌年、 一九九八年、私は、三月の奥三河・白鳥山(九六八m)、五月の山梨の足和田山(一三五五m)、六月の長野の鉢伏山(一九二八m)の登山に参加した。足和田山は西湖の近く。五湖すべてが展望できる地点である。山頂からの富士山の眺めが素晴らしく、私は夢中になって撮影した。皆がそんな私を見て「不治の病」にかかったようだと笑った。鉢伏山はレンゲツツジで有名な山で楽しみにしていたが、霧が流れて、よく見えなかったのが残念だった。
 この鉢伏山が第五十回の山行であり、それを最後に、本宮山友の会は解散した。五十回のうち、参加できたのは、半分もいかないと思うが、山登りの基礎知識を学ぶには十分だった。感謝している。

2019年9月5日 記す



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