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2020年1月16日

日々雑感 第二十四話 及部十寸保

第二十四話 「山を楽しむ~ぶなの会」
 本宮山友の会は、一九九八年六月に解散した。本宮山は当地方で最も美しい山容なので、会の名前として用いるのは当然だった。新しい会は一九九八年十月、名無しのままスタートした。岐阜・下呂の白草山(一六四一m)登山を初回とした。なだらかな広々とした山頂で、思いがけず霧が晴れ、御獄山(三〇六七m)が姿を現した時の感動は忘れられない。 さすが、御獄の一級の展望台と言われるだけのことはあった。
 第二回の山行は十一月に長野の大川入山(一九〇七m)。アプローチが長い山。長く尾根を歩いて、直下から見上げる山頂付近の端正な姿がこの山の第一の魅力であり、私の好きな山である。このときの思い出のひとつが輪になっての昼食。 仲間のために、皆さん心尽しの料理を用意してきてくださった。
 十二月に忘年会が開かれ、新しい会の名前はどうしようか議論があった。「破れ笠」「コマクサ」「ヤマユリ」「元祖友の会」など案は出ていたが、どれもパッとしなかった。誰かが、「ブナはどうか」と提案した。ブナの木、そして原生林は素晴らしい。ブナは、木の実を豊富に提供し、建築用材としても貴重な樹木。奥三河の面ノ木は日本国内でも、有数のブナ原生林。冬には水蒸気が着氷してできる樹氷が光を受け、輝き、美しい。秋には峰走りが見られ、これも見事である。 ブナは根から栄養を吸い上げて三十メートルを超える巨木となる。日本の原風景であるブナ林。会の名前にふさわしいと皆、 一致した。
 その一週間後、遂に念願かなって、雨ケ岳(一七七一m)に登ることができた。かなり大変な直登。足(きた。下りは足を滑らせ、尻餅をつきながら、なんとか赤富士を狙えないか、必死で歩いた。会員の皆さんが三脚を持ったり、励ましてくださったりしたおかげで、最後の数分の結麗な富士をカメラにおさめることができた。当時はフィルムカメラ。現像するまでドキドキした。いい写真が撮れたことを今でも感謝している。
 翌年、 一九九九年三月、満観峰山(四七〇m)。会員の中神さんのご友人の南さんが案内をしてくださった。満観峰の名所のひとつ、朝鮮岩に立つと、誠に風光明娼だった。その後、山頂をめざす。下山して、花沢山(四四九m)を目指す道は長者門つくりの家並みが続く。花沢の里と呼ばれる。みかん・茶を栽培する農家の使用人住居が門になって残っているそうだ。四月の山行は天狗にひっくり返された碁盤石があるという伝説の山、碁盤石山(一一八九m)。
 五月は川上岳(一六二五m)。私にとっては、四十年ぶりのテント泊。山頂は草地で三六〇度の大パノラマ。御獄、乗鞍、そして槍をはじめとした北アルプスの山並み。目を転ずれば白山の雄姿。いずれも雪をかぶって美しかった。六月、鷲ケ岳(一六七一m)。
 七月例会は、白馬岳(二九三二m)。登山家林徹文氏の特別企画に参加する形で行われた。私にとっては久しぶりの夏山登山。初めての百名山。初めての雪渓。しかも写真撮影までさせてくださった。軽アイゼンを履くのも初めて。山頂に九十九草という、この山でしか見られない花が満開になっていた。ライチョウも初めて見た。そして、なんといっても、特筆すべきは初めての雑魚寝。すぐ、自分のスペースがなくなってしまい、困った。実は私はその二日後に講演会を控え、 四十枚の原稿を持参していた。栂池自然園へ降りてくるとき、これを阻噛しようと試みた。林氏が聞いてくださった。おかげで講演会は大成功だった。ちなみに、このとき、林氏は私のリュックまで持ってくださっていた。そして、アドバイスをくださった。「登山は楽しまなければ。向こうから来る人にどんどん声をかけなさい。下を向き、黙々と歩いていては駄目です。」疲れるとどうしても無ロになる。声を出していると元気になれる。私は林氏の言葉から、人生を楽しみながら続けていきたいと思うようになった。
 八月には面ノ木の二一〇〇高地、天狗棚。九月には岐阜の大船山(一一五九m)、荒峰山(一二七一m)、十月は静岡水窪の常光寺山(一四三八m)と毎月の例会に参加しながら、私は撮影旅行にも積極的に出かけていた。
 そして、会がスタートして一年と少し経った登山は、筒井氏の愛知の百山登頂記念山行だった。それは豊根村の萩太郎山(一三五八m)。山頂で記念撮影をし、南アルプスの素晴らしい展望を楽しんだ。そして、心からバーベキューの祝賀会も楽しんだ。こうして、ぶなの会の一年はあっという間に過ぎていった。
 初年度と同じように、翌年も、ほぼ毎月、ぶなの会の山行は企画された。そして、私も可能な限り参加をした。そして、 十年ももの長い年月、活動は続き、二〇〇八年六月に百回目の登山をもって、ぶなの会は幕を閉じた。十年間の歴史の中で、心に残る登山をいくつか挙げてみたいと思う。
 まずは、二〇〇〇年三月の雪の鳥居峠(長野県)。薮原旧街道をとおり、御獄山の遥拝所の鳥居が名前の由来となっている峠を越す。雪をかぶった栃の木の巨木が有名である。七月の北アルプス乗鞍岳(長野と岐阜の県境。三〇二六m)。 クロユリとイワカガミの群生が見事であった。霧の中で登山を始めた。突然晴れ間がでて太陽が姿をあらわしたときの美しさは忘れられない光景である。そして、また霧が出て、尾根に出た途端、横からの強風。滑落しないように頑張った。 八月の鉢伏山(長野県・一九二九m)に咲き乱れていたマツムシソウもまた見事であった。
 二〇〇一年一月、石田三成の佐和山(滋賀県・二三三m)。皆さんと別行動で訪れた彦根城。玄宮園という雪の庭園をどうしても撮影したかったからである。私は夢中で撮影をした。そして、その庭園に、山登りに大事なチタンのスティックを忘れてきたのである。橋のむこうの景色を撮ろうとして、たもとの木にかけたのである。いつまでも妻に小言を言われた思い出がある。七月、スズランで有名な入笠山(長野県・一九五五m)。時期が終わっていたのが残念だった。八月の山伏(静岡県・二〇一三m)。霧が流れ、クマザサが茂る中、満開のヤナギラン。素晴らしかった。九月の籾糠山(岐阜県・一七四四m)。泉鏡花e高野聖の舞台とあって、幻想的な風景が目の前に広がった。
 二〇〇二年五月、富士見台(長野県園原・一七三九m)。皆に迷惑をかけるのではないかと心配していたとき、駒つなぎの桜の撮影時に、ロープウェイを見かけたことを思い出し、利用することにした。花の撮影はあまりできなかったが、牛の背中のような恵那山(二一〇〇m)を目にすることができた。十一月の例会では、遂に私は登山をせず、皆を待ちながら、富士山の撮影をしていた。登ることよりも撮りたいという誘惑に勝てなくなっていたのである。その後、実際、私は、ぶなの会から足が遠のいている。
 二〇〇六年に復活。黄金に輝く三河湾を眺める宮路山(三六一m)・五井山(四五四m)の縦走に参加。二月に薩唾峠のトレッキングに参加。富士や波静かな駿河湾を眺め、早春を楽しんだ。この年は真面目に参加しているが、特に、記憶にあるのが、九月の設楽の平山明神山(九七〇m)。エンシュウハグマが結麗だった。
 二〇〇七年二月、唯一自分が企画したトレッキング。静岡県富士市の岩本山(一九三m)。梅まつりが行われる中、花と真っ白い雪を被った富士山を楽しんだ。四月、三重県御在所岳(一二一二m)。いくつか登山ルートがあるが、皆が私に合わせてくれ、武平峠からの易しいルートを選んでくれた。アカヤシオを愛でながら登山ができた。花闇岩の山肌と格闘して行きは二時間要したが、帰りはロープウェイで十二分。天候急変後の雨に濡れた新緑が美しかった。九月には伊吹山(一三七七m)。撮影のために、何回も訪れた伊吹山だが、意外にも、ぶなの会のメンバーとは、これが初めてで最後だった。秋の草花が沢山咲いていた。十一月に行った夜叉ケ池山(岐阜と福井の県境・二一〇六m)。途中で、日本百選の名木の樹齢三百年とも四百年とも言われる栃の大木に出会った。そして、泉鏡花の戯曲で有名になった伝説のある夜叉ケ池に到着。私はここで撮影に没頭した。この後、会員は各自で登山を楽しむようになり、会は自然に閉じることとなった。
 私は六百匁に満たない未熟児として生まれた。二千グラムぐらいの赤ん坊だったと思われる。とても小学校まで上がれまいと人に言われた。母は、湯たんぽふたつを布団に入れて、幼い我が子を守ったという。小さい頃の私は病弱で、外出もできない子供だった。そんな私の足を鍛え、雄大な世界に羽ばたくことができるようにしてくださったのは、ぶなの会の皆さんである。会を通して得た知識をもとに、私は個人でもいくつかの山に挑戦した。しかも、重いリュックを背負い、 カメラと三脚をかついでの登山を何十回となく経験できた。多くの山に出会い、登頂して、大きな感動を得ることができたのは、ひとえにぶなの会の皆さんおかげと深く感謝している。

2019年9月5日 記す



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