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2020年1月17日

日々雑感 第二十五話 及部十寸保

第二十五話 「私の富士登山」
 私の初登山は富士山だった。高校三年、卒業を前にして、私はクラスメイト二人と話し合った。松永君が言った。「もう少しで君たちと一緒に卒業できるはずだったのに、親父の転勤で吉原に転居することになった。」吉原というのは、今の富士市にあり、大昭和製紙株式会社の工場が立ち並ぶ地域として、当時有名だった。彼は、転居したら、遊びに来ないかと誘ってくれた。「卒業記念と、君たちとのお別れに、富士山に一緒に登らないか。」と言った。「僕たちのはっきりしない未来も、高いところからなら、見えてくるだろうよ。」と言葉を繋いだ。私はすぐに応じた。「それは、素敵な考えだ。 僕も富士山に登ってみたい。」杉浦君もすぐに賛成した。「僕は、名古屋の教育委員会勤務に決まっているから、公僕となったら、山に登る時間はないかも。人生の区切りとして、ぜひとも富士登山に参加したい。」三人揃って富士登山に挑戦することになった。
 そのとき、松永君が、思いついたように言い始めた。「僕の家、新築なんだ。風呂場の窓を大きくしてもらったから、でっかい富士山が目の前にはっきり見えるんだ。富士山はいいぞ。」そして、松永君は、「君たちさえよかったら、家に泊まって、次の日に富士山に登ろう。」と言った。あの美しい富士山を想像して、三人は「最高ー」と叫んだ。
 三人ともそれぞれ親の許可を得た。登山の実行予定日は七月二十日となった。ある日、母が真剣な眼差しで言った。「お母ちゃん、本当は富士登山がすごく心配なんです。高校三年生といっても、山のことを何も知らないでしょう。万が一、 事故でも起こしたら、皆さんに申し訳ないでしょう。小さく生まれたお前が、丈夫になって、富士山に登りたいなんて言えるようになったのは嬉しいことだけど。」私は「今さらそんなことを言っても無駄ですよ。」と、必死にお願いをした。 やつとのことで母も納得してくれ、父が買ってきてくれた新しいリュックを見て、安心してくれた。ただ、道中、様子を知らせるように、電報を必ず打つようにと母に言われた。
 出発の日、吉原に向かう電車は混んでいたが、私には何も不安はなかった。吉原の駅には、松永君のお母さんとお姉さんが迎えに来てくれていた。お姉さんはきれいな人だった。男だけで育った私には松永君が羨ましかった。
 松永君の家は素敵な豪邸だった。タ食には駿河湾でとれた魚が出た。美味しくいただいた。自慢のお風呂からの風景も素晴らしかった。幸せな時間がゆっくり過ぎていった。早朝の出発に備えて八時過ぎには就寝した。翌朝はいい天気だった。
 登りロの五合目で、マイクで叫ぶ警備員の言葉を信じられない思いで聞いた。「山頂は荒れています。皆さん、山頂に着いたら、すぐ下山してください。」なんだ、せっかく来たのに、すぐ降りよとは最低だ。怒りがこみあげてきた。最初は樹林帯だった。六合目を抜けると岩場が多かった記憶がある。天気はなんともなかった。山頂にたどり着いた。嵐だった。これではどうにもならない。普通、雨は、上から下に降るものなのに、ここでは、下から上に吹き上げ、しかも、小石交じりだった。痛くて目も開けていられない。「おい、これはたまらん。すぐ下山しよう。」と走り出したら、須走では立ち止まれない。三人は、先になったり、後になったりして一目散に駆け下りた。おそらく陸上の桐生選手より速かっただろう。避難小屋が目に入った。「おい、あの小屋に入ろう。」と私が叫ぶと、三人一緒に飛び込んだ。そこには、びしょ濡れの人たちが溢れ、着替えをしていた。男も女もなかった。皆、ブルブル震えながら、身体を拭いていた。
 やがて、小降りになったので、小屋から出て下山した。皆、敗残兵のように力なく歩いた。朝から、何もお腹に入れていなかったからか、やっとの思いで駅に着いた。列車を乗り継いで豊橋に到着した。私は、途中で家宛てに電報を打っていた。電文は「フウウツョクテフラフラ」(風雨強くてフラフラ)。家に帰るとすぐに叱られた。「お母ちゃんもお父ちゃんも皆とても心配していたの。そのとき電報が届いた。見たら、意味不明じゃないのー皆、腹を立てたのよ。」
 私の初めての富士登山は、けっしていい思い出にはならなかった。逃げ出したような敗北感が残っただけだった。当時、 和田から学校まで往復六時間歩いて通い、足にかなりの自信があった私はプライドを失った。人に山に誘われてもイエスとは答えなかった。平地はどこまでも歩く自信があり、実際、五十血を歩いても全く平気だったが、登山は頑固に断った。 四十五年もの間、一度も登山をしなかった。そんな私が、本宮山に登ろうという気持ちになったのは、熱心に誘ってくださった皆さんのおかげである。その後、本宮山友の会、ぶなの会、そして、撮影のためや、個人山行で、いくつもの山に登った。初めての富士登山後の空白を埋めるために、一生懸命、登った。夢であった日本百名山も数多く登った。すべて、中神さん、福井さん、高柳さん、ぶなの会の皆さん、故白井先生のおかげである。山の素晴らしさを知って、私は元気に山野を巡ることができた。
 ただ、富士山に登ったのは、あのとき、 一回限りである。 一緒に登った彼らは、今どうしているだろうか。

2019年9月12日 記す



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