2020年1月20日
日々雑感 第二十六話 及部十寸保
第二十六話 「南の島へ慰霊の旅」
一九四三年五月、妻の兄、岩瀬家の三男、彰さんは、「マーシャル群島ジャボール島近海」で戦死した。そのように、
当時七歳だった妻は、母親から説明を受けたという。今、地図を見ると、マーシャル諸島共和国の首都からニニ〇而のところに、ジャルート環礁があり、その九十一の島のひとつにジャボール島がある。第一次世界大戦後、マーシャル諸島を含む南洋諸島全域は日本の統治下にあった。ジャルート環礁には日本海軍の基地があったため、 一九四一年十ニ月、太平洋戦争が開戦すると、アメリ力軍の攻撃目標となった。彰さんは、その攻撃を受けて、船もろとも撃沈されたのである。
平成十四年十月二十日より四日間、私たちは、戦死した兄、彰さんの慰霊に出かけた。 一行は、老松会のメンバーで、 竹村文子さんをはじめとして、荒木栄一さん・和子さんご夫妻、岩瀬勲さん・茂子さんご夫妻、白井智子さん、私と妻、 そして、お世話と案内をしてくれた荒木秀明さん・美智子さんご夫妻の計十名。在住地が違うので、東京と名古屋、別々に出発した。兄の死んだマーシャル諸島に少しでも近い場所をと、サイパン島に向かった。写真家荒木秀明氏は、モデル撮影でしばしばこの地を訪れていたので、地理に詳しく、美味しい食事処も知っていた。到着した夜は韓国料理を十分に味わった。
翌朝、私は、早くに目が覚めた。砂浜を一時間近く散歩した。海を渡る風が心地よかった。宿に戻ると、皆が私の帰りを待ちかねていた。皆には悪いと思いつつ、南の島の空気を独り占めしたような気分で嬉しかった。朝食後、再び、海に向かおうとすると、「今日はテニアンに行くのよ。もう船が出るから。」と止められた。そうであった。今回は彰兄さんの慰霊が目的だった。写真撮影に来たわけではなかった。自分に言い聞かせた。でも、撮りたいと思う気持ちをおさえられないくらい、海と空はあまりにも美しかった。
テニアン行きの船に乗った。青く広い海がどこまでも続き、白い波が立つ。その上を鳥たちが飛ぶ。美しさに、しばし見とれた。島に上陸後、マイクロバスの運転手兼ガイドさんからタガ遺跡の紹介を受ける。ここには、大きな石のモニュメントがある。五メートルくらいe高さの石柱に、お椀型の石が乗っている。古代チャモロ人の伝説の支配者、タガ王が造ったと言われる。石のモニュメントは、ラッテ・ストーンと呼ばれ、サンゴ石でできているそうだ。そのモニュメントの傍らには、白い花が咲いていた。その花はプルメリア。レイ(首飾り)やマーマー(花冠)に使われる国花だそうだ。 私たちは、その花を、戦後日本人によって建てられた慰霊碑に供えた。
岩の切れ目から海水が激しく吹き上げている場所があった。間歌泉というそうだ。ここは、南洋、チュルビーチである。 海はどこまでも透明で、きれいなこと、この上ない。
滑走路があった。ノースフィールド飛行場である。元々はハゴイ飛行場といい、日本人の囚人部隊によって建設された日本軍の重要な基地であった。その後、一九四四年にテニアンを占領したアメリカ軍の管理下で改名され、滑走路の拡張工事が行われた。急ピッチで建設されたらしく、ごつごつしていて、走りづらい、あまりにも粗雑な造りである。そして、 その飛行場の片隅に碑があった。ここから、「原子爆弾を搭載したB29が発進した。」と説明を受けた。 一瞬のうちに、 人々を、街を焼き尽くした原爆が、ここから飛来したと思うと、なんとも言えない気持ちになった。
帰途はセスナ機に分乗。サービスで、テニアンの海岸線に沿って一周してくれた。上空から見る海は真っ青、景色を充分楽しんでから、サイパンに戻った。
私は宿に着くと、着替えもそこそこに、三脚を持ってマイクロビーチに走った。凄いタ景。とにかく凄い。スコールの後の美しさは格別である。私は膝を濡らしながら、この景色を撮りまくった。
三日目は全員でオブジャンビーチに出向いた。戒名を記した紙、お酒、お水を流して、南方の海に眠る兄に届くように手を合わせた。その後、ラストコマンドポストを訪れた。日本軍最後の司令部の跡地である。ここには、鉄筋コンクリー ト製の防御陣地であるトーチカの残骸があった。トーチカの前には、錆びて朽ちかけた戦車や大砲が置かれていた。それらを目にし、戦争への道を再び歩んではならないと心に誓った。
最後に、スーサイドクリフに行く。「自決の崖」である。この崖のあるマッピ山山頂付近は公園として整備されていた。 その展望台からは、同じく集団自決地であるバンザイクリフ(マッピ岬)を望むことができた。「万歳ー」と叫びながら海に飛び込んでいった日本の人々を偲んだ。
彰兄さんは、雪の舞い込む土間で、一生懸命に勉強するような学習好きな子供だったという。長じて、小学校高等科から浜松師範学校へと進んだ。真面目で一本気の青年だった。妻の姉、白井智子さんの記憶では、陸上競技で活躍し、「浜師(浜松師範)の岩瀬」として有名だったという。全国大会が開かれた神宮競技場で得たトロフィーが、「お葬式のときにずらつと並べられていた」という。卒業後、彰兄さんは御殿場市の小学校の教員となる。その後、予備士官学校に進む。 軍国青年だった。お国のためにと、自ら志願して入隊した。岐阜や静岡の部隊にいたが、南方への転進命令を受けた。「戦地に発つ前に、兄弟姉妹で、静岡にお別れに行った。」と妻は記憶している。
南方へ向かう輸送船が撃沈された、そのとき、兄は甲板の見張りから、ちょうど船室に戻ったところだったらしい。戦死の公報が入り、白木の箱が届いたが、中には紙切れ一枚しか入っていなかったという。彼を最も愛していた父母は、無言で子の死を受け止めた。その後、兄の双眼鏡が届いた。兄と交代して、その双眼鏡を受け取り、甲板に立った友人は無事だった。そして、家族の元へ届けてくれたのだ。「軍国の母」として感情を表すことを自分自身に許さなかった母親は、 その遺品が届けられたことを秘かに喜んでいたという。
昭和十六年十二月八日、「日本陸海空軍は、本日未明、西太平洋において、米英軍と戦闘状態にあり。」と大本営発表があった。日本軍は、真珠湾に停泊していた米国の軍艦を壊滅させたのである。この真珠湾攻撃で大きな戦果をおさめた日本軍は、中部太平洋、南太平洋、さらに東南アジアに侵攻、各地で連戦連勝、国民は、毎日のように、提灯行列をして勝利を祝った。日本軍は、米軍が反撃に出るのは昭和十九年に入ってからと計算していたが、その時期は意外に早く、昭和十八年には始まった。軍事力において圧倒的に勝る米軍によって、日本軍は、それまで絶対的に有利であった中部太平洋や南太平洋でも追い込まれていく。ソロモン諸島最大の島、ガダルカナル島が「餓島」と呼ばれたように、補給路を断たれ多くの餓死者を出したり、病に悩まされたりする悲惨な状況が次々に起こっていった。
今年、終戦の日を前に、古賀誠元自民党幹事長が、今の政界について、「議論がなく、戦争の末期と同じような政治の貧困」に陥っていると指摘し、自分の戦争体験を次のように語った。
「二歳のとき、父親が赤紙招集で出征した。終戦からしばらくして、白木の箱が届いた。開けたら、紙が入っていて『昭和十九年十月三十日、フィリピン・レイテ島に没す。』と。それが遺骨代わり。母は覚悟していたのか、非常に凍としていた。残された姉と私をなんとか育てなければと精いっぱいだった。戦争に向けてちょっとでも風穴が開くことは一切賛成できない。戦争はわれわれのような(悲しい思いをする)体験者をいっぱいつくる。それは絶対駄目だと思い、政治を志した。」
この体験をもとに、古賀氏は、現在の改憲議論について自説を展開している。「改憲議論はしっかりとやらないといけない。戦後七十四年たち、見直さなければならないものもあるかもしれない。現行憲法で守るべきは九条。(中略)七十四年間、日本は戦争に巻き込まれないできた。同時に九条には、世界の多くの国に迷惑をかけたという償い、謙虚な気持ちが含まれている。だから九条は世界遺産だ。」と、九条改憲に対して反対の姿勢を明確にしている。これは古賀氏一人の意見ではなく、三百万人というアジアの戦争犠牲者の心を代弁していると言える。
2019年9月23日 記す