2020年1月30日
日々雑感 第二十八話 及部十寸保
第二十八話 「学園一体でつないだ平和の火~塔建立三十周年 盛大な式典・イベント」
秋のそぼ降る雨。続々と桜丘高校の正門をやって来る人の群れ。平和の塔の前には、ステージが特別に設けられている。正門の前にはテントが張られていたが、向こう側には、愛知大学の渡辺正教授、高橋正教授、別所興一教授ら先生方のお顔が見え、こちらのテントには、着飾った卒業生父母の姿がある。今日はめでたい式典の日。自分たちが力を尽くして築いた平和の塔が、三十年という長い年月、原爆の火を灯し続けてきたのである。
この大きな石の塔は、阿武隈山中から切り出した花崗岩。「変わらぬ大地」をイメージしている。プロパンガスを流すための導管が中を走り、三つの道火をつけている。中部ガスの元榎本専務の知恵を借りたものである。塔の下の鉄板は、戦争の暗い思い出や悲劇を表現し、塔の中央に長く貼られた輝くようなステンレスは、明るい未来を象徴している。当時の美術教諭飯田先生の案である。建立の数日後に、何者かによって破壊行動を受けるという事件を乗り越えて、さらに強固となった平和の塔は、火を灯し続けてきた。
式典が始まった。前理事長満田稔氏の挨拶がよかった。皆が感動した。「本校には二つの悲しい歴史があります。」と語り始めた。ひとつは、一九四五年六月十九日~二十日の豊橋空襲。街の七〇%が焼失し、六二四人が亡くなった。豊橋市戦災復興誌は「空襲は営々辛苦築き上げた父祖数百年の郷土豊橋のほとんどを、一夜にして灰燼に帰せしめた。」と記している。この時に、桜丘高校の東田校舎も炎上している。二つ目は豊川海軍工廠の爆撃による被害。八月七日、桜丘の勤労学徒三十七名と引率教員一名が爆死している。そういうことが、桜丘の平和活動の源になっていると、満田氏は語った。「戦争は絶対にいけない。しかし、核戦争はどこにでも起こりうる。今、そういう平和の危機にある。だからこそ、平和のための行動が必要だ。」と式典に参列した人々を激励した。
続いて、豊橋市佐原市長のご挨拶があったが、その途中で、ピースリレーの企画に挑戦した生徒たちが帰ってきた。これは、満田理事長のおっしゃった平和のための行動を具体化したもので、小林教諭のもと、高校生徒会の有志たちが、平和への願いを込めて、九百キロの距離を自転車でリレーをするという企画である。原爆の火を受け継いだ星野村から学園までの道のりを、世界平和や核兵器廃絶を訴えながら走る試みである。途中、広島にも寄り市長のメッセージを受け取った。本来は式典前日に到着する予定だったが、後に令和元年十九号台風と呼ばれ、各地に大被害をもたらした台風の影響で、一日遅れの帰校となった。大きな拍手で出迎えられた。
その後、星野村の故山本達雄氏の次男、拓道氏が登壇、建立当時には達雄氏とともに豊橋に来ていたことや、桜丘教師らが毎年星野村を訪問していたことに触れ、その熱心さに心を打たれてきたことを話された。
会場を記念会堂に移して、第四回原爆の火サミットが開催された。残念なことに、前日の台風の影響で、参加団体が少なかったが、学ぶところの多い企画となった。高橋勇雄先生の司会で始まった。豊橋ユネスコ協会の渡辺会長が、建立三十周年のお祝の言葉に続いて、桜丘高校が星野村を訪ねるよりも、かなり前に、ご自分が訪問されたときのことを講演された。当時、星野村はダム建設の計画があり、水没の危機にあったそうだ。先生が調査に出向かれ、星野村は救われた。日本一美しい村に生まれ変わることができたのは、先生のおかげと言えよう。そのときに、先生は故山本達雄氏に出会って、原爆の火の話を聞かれたという。「火を恨みの火だ。」と語る山本氏を、先生は、「恨みは恨みを呼ぶだけだよ。」と諭し、火を村に提供したらどうだろうかとアドバイスされたとご自身の経験を語られた。私は、星野村を訪れたときや、山本氏が愛知県に来られた際に、対談する機会をもち、「恨みは恨みを呼ぶだけだ」と気づいたお話を何回も聞いてきた。そして、それを何回も文章として表現してきた。その大元になったのが、渡辺会長のお言葉だったと初めて知り、感激した。
続いて、茅野市の伊那市民の会の宮下与兵衛氏が、自分たちの会が建立した平和の塔は、桜丘のものを参考にしたというお話をされた。県立伊那高校を退職後、首都大学で教壇に立っていらっしゃるが、先生は学生たちに、いつも、このようにお話をされるという。「日本の学生は知識はある。しかし、行動をしない。そして、選挙権があっても、投票に行かない。桜丘の生徒のように平和活動をしないから、その間違いが起きる」活動する桜丘の生徒たちには、その話は心に響いたと思う。
原爆の火を灯し続ける会の小南会長から近況報告が行われた後、いくつかの高校生のグループ発表があった。東邦、豊川、豊橋中央の生徒らが、研究発表を行った。豊川海軍工廠についての発表もあり、高校生が関心を持ってくれていることが嬉しかった。
愛知県原水爆被災者の会(愛友会)の水野秋恵さんが、ご自分の被爆体験について話された。時間が足りず、報告中心となり、討議にならなかったのが残念ではあったが、様々な話を聞くことができて、大変有意義だった。記念会堂は階段があるからと、当初、参加をためらった私であったが、心優しい若手の教員や知人らが、車椅子を皆で担ぎ上げてくれたおかげで、入場できた。心から感謝している。
最後に、薄暗くなったなかで、夕暮れ平和コンサートが始まった。吹奏楽・太鼓・合唱が披露された。そのとき、ちょうど、私は、朝日新聞の佐々木記者に取材を受けていた。彼は、福岡報道センターの記者で、陶芸家としての山本拓道氏を世に広めた人である。今回も拓道氏に同行して、このイベントを取材していたのである。佐々木氏が言うには、達雄氏はよく私のことを息子の拓道氏に話してくださっていたらしい。達雄氏を懐かしく偲んだ。コンサートで心に残ったことは、合唱の輪に加われたことである。疋田団長率いる「遠ざかるまいこの火から」合唱団の方々と、藤村先生の指揮で一緒に歌ったのである。紫色の表紙の楽譜を大切に保管しておいてよかったと思った。昔覚えた曲は、どうにかやっと、歌えて嬉しかった。この日は、楽譜のうち、三曲を抜粋して歌ったので、藤村先生から、「今度は、全曲歌いましょう」とお誘いの言葉をいただいた。
三十周年のイベントは無事終了した。この日のために、桜丘の職員・生徒・父母、桜丘に関わったすべての人が、心をひとつにして、頑張った。
2019年10月22日 記す