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2020年2月6日

日々雑感 第二十九話 及部十寸保

第二十九話  「奈良 般若寺を訪ねて」
 二〇一九年十月三十日、私は車椅子に乗り、豊橋駅の新幹線のホームにいた。妻と次女と孫娘が一緒だった。この旅行の最初の目的は、妻の大学の同窓会だった。奈良まで一人で行かせるのは少々不安ということで、娘たちが同行することになり、それならばと、一泊二日の旅行を娘たちが勝手に企画してしまった。半年前のことである。秋は、ここのところ、京都を訪れ、紅葉の写真撮影をするのが恒例になっていた。それを楽しみにしていた私としては、自分よりも妻の用事が優先されたことに納得がいかず、また、電車を使っての移動に、かなり気が滅入っていた。春の東京見物のときのトラウマがまだ残っていたからである。名古屋で長女が合流すると聞いたが、乗降に自信が持てなかったのである。
 しかし、十月十四日の平和の塔建立三十周年記念式典イベントの後、私の気持ちは大きく変わった。イベントの際、平和サミットが開催された。これには、豊橋中央高校、東邦高校、豊川高校の生徒たちが参加してくれたり、「非核平和都市宣言をさらにすすめる伊那市民の会」から宮下与兵衛先生が来てくださったりして、立派なものになった。だが、聞くところによると、記念事業実行委員会は、桜丘と同じように、原爆の火を分火してもらった他の団体にも声をかけたそうである。しかし、応答してくださったのは、伊那市の平和の塔建立に関わりのある宮下先生と、メッセージを送ってくださった「上野の森に『広島・長崎の火』を永遠に灯す会」だけであったらしい。分火された団体からの参加が少なかったことが、私はとても残念であった。多くの参加があってこそ、より実のある討議ができる。どうしたら、参加していただけるのか。私は帰宅してから、いろいろ考えた。そして、平素の交流がなければ来ていただけないのではないか、その交流の橋渡しのような役割を果たせないかという考えにたどり着いた。
 そうだ、奈良には、分火団体のひとつ、般若寺がある。私の中に、自分が思いついたことを、実践してみようという気持ちが湧いてきた。資料を整えた後、勇気を振り絞って、般若寺に電話をかけた。平和の塔のことでお話をしたいと申し出たところ、「忙しいが、午後なら少しだけ時間が捻出できる」という返事をもらった。娘たちに、奈良に着いたら、一番最初に般若寺に行きたいと申し出た。例によって、車椅子や歩行器での移動の旅である。孫娘三人も仕事を休んで、付き添ってくれることになり、しかも、移動が楽なようにレンタカーを借りてくれたという。また、車椅子での電車の乗降がスムーズにいくように、事前にJRに補助を依頼してくれるという。私は楽しみになってきた。これは、私のライフワークである平和活動が目的の旅なのだ。
 実際、JRの駅員の方々には、いろいろ助けていただいた。朝の豊橋駅の新幹線ホームは、小学校と高校の修学旅行生で、ごった返していたが、駅員さんが車椅子の通る道を作ってくださった。京都駅では、乗降を補助してくれた駅員さんが、観光客の溢れる駅構内を、最短距離で乗り換えできるよう案内してくださった上に、JR在来線のスタッフに引き継いでくれた。奈良駅では、駅員さんの他に、JRの帽子をかぶった中学生が四人、ちょこちょこと走ってきて迎えてくれた。職場体験だった。感謝である。
 午後一時になるのを待って、般若寺へ。受付で訪問目的を伝えた後、娘たちに車椅子を押してもらって、境内へ。十三重の石宝塔が目に入る。本堂の前にちらほらとコスモスが咲いている。ここ般若寺は、コスモスの寺として有名なのだそうだ。雰囲気のいい寺である。私はすぐ平和の塔をさがした。それは本堂の横、釣鐘の横にあった。高さ二メートルくらいのものであった。ガス灯である。傍らに千羽鶴がかけられている。保育園から送られたもののようだ。
 平和の塔を眺めていたら、声をかけられた。農作業中のような恰好をされている。なんと、住職であった。お名前を工藤良任さんといわれる。七十一歳だそうだ。物静かな感じの住職に、今回の訪問の目的を話し始めた。参加していただけないのなら、自分たちから出かけていけばいいということを思いついたのだと話したところ、「式典のことをご案内いただいていたかもしれないのですが、ご覧のとおり、コスモスの作業に追われて、とても出かけられないのです。」とおっしゃる。確かに、式典のあった十月十四日は、コスモスの全盛期。十五万本ものコスモスを、住職がご自分で世話をされていると聞いて驚く。そして、花の見頃が過ぎた今も、片付けでお忙しいのだそうだ。そんな中、時間を作ってくださったことに、私は感謝した。
 般若寺でも、七月の終わりに、毎年、「平和の塔のつどい」を開催しているのだと住職は言われた。「被爆体験をよく聞くことがまず大切だから。」と言葉を続けられた。平和の火は、住職ご本人が、個人的に保存しようと思い立ったのが発端だという。一九八八年、国連軍縮会議に星野村の平和の火が運ばれた際、奈良県でも五つの場所に分火されたそうだ。「東大寺にも灯されたと聞いています。」とのこと。しかし、東大寺など、他の四か所は一日で消えてしまったそうだ。住職はなんとか保存できないものかとお考えになった。最初は、ロウソクに灯して管理した。しかし、ロウソクは一日で消えてしまう。そこで、石油ランプを二つ用意し、五日間ずつ交代で灯した。その苦労を知った方々から募金が集まり、今のガス灯の平和の塔が建立されたそうだ。募金は三千人もの方から寄せられたという。石の壇(娘がインターネットで調べてくれた情報によると、その壇はイタリア産の大理石が使われていて、地球の大地を表しているとのこと。)の上に載っている球形のプラスチックに囲まれて、平和の火は燃え続けている。この球形の容器は、ブロンズ製の人間たちが手を結びながら守っている、素晴らしいデザインの平和の塔であった。
 「私は、以前は、宗教者の平和協議会の代表として、広島や長崎の原水爆禁止世界大会に毎年行っていたんです。」と住職はおっしゃる。しかし、C型肝炎やヘルニア、大腸がんなど、三度も大きな病を患われ、「今は参加できなくなってしまった。」とのこと。私が星野村に行った話や、山本達雄氏の息子さん拓道氏のお話を伺ったことを話すと、「星野村からも案内をもらうが、まだ一度も訪問が実現していない。」と、残念そうにおっしゃった。しかし、平和行進の際には、京都と奈良の引継ぎが寺の境内で行われること、そのときには二百人から三百人もの方が集まられるのだと嬉しそうに語られた。奈良県の原水協は、個人の力で成り立っていて、以前は、寺中先生が、そして、今は、被爆二世の梅林さんが支えていらっしゃるそうだが、奈良県の宗教者平和協議会も、月一回、活動をしていらっしゃるそうだ。住職は寺を守りながら、平和活動に大きく関わっていらっしゃるのだった。
 住職と私が合意したことがある。「今は、戦争体験者が減り、戦争を知らない者が政治をしている。これはとても怖いことだ。」ということである。「被爆者の話を聞くことがとても大切だ。」というお考えの背景には、「自分たちは戦後まもなくの頃は原爆のことを知らなかった。なぜなら、占領軍によって情報が管理されていたから。」というお気持ちがある。これは、今の日本にも当てはまることなのではないか。住職と私の思いは一緒だった。私の胸は、熱くなった。残念なことに、住職は、コスモスの作業に戻らなければならないと言われた。そこで、私は、自分の用意した資料をお渡ししながら、「もし、こちらのお寺でも、なにか平和活動をまとめたものがあったら、冊子でもなんでもいただけないか。」と厚かましいお願いをしてみた。住職はかなりの時間をかけて捜してくださった。しかし、残念ながら、「見つからなかった。」と戻っていらっしゃった。「和歌山県の教職員組合で、まとめてくださった記事があったはずなのですが・・・。」とおっしゃる。しかし、「奈良県の宗教者平和協議会については、奈良の新聞もとりあげてくれているので、インターネットなどで調べてもらったら、記事が出てくると思うから、それを参照してほしい。」とおしゃった。私は、無理を言ったにもかかわらず、嫌な顔ひとつせず、お忙しい中、時間を割いてくださった住職に心から感謝した。訪問前は、訪問目的をきちんと伝えられるか、とても不安だったが、長女の助けもあり、充実した対話をもつことができ、私は大満足だった。
 そして、趣味である写真撮影に行動を移そうと、住職に御礼を述べていたところに、女性の方が、「ありましたよ。」と走ってこられた。嬉しかった。みんなへの土産ができた。自分の橋渡しの役割が少し果たせたような気がした。いただいた文書に載っていた記事によると、住職が、平和活動の場として般若寺を提供されるようになったきっかけが書かれていた。オーストラリアの町に行き、平和の集いに参加した際、現地の子供たちから、「日本のサダコさんに渡して。」と千羽鶴を預かったが、サダコさんが誰のことなのか全く分からなかったそうだ。私との話の中でもおっしゃっていたが、原爆についての教育を一切受けることがなかったためであった。子供たちとの約束を果たしに、広島を訪れて、「原爆の子の像」のモデルであるサダコさんの存在をお知りになったとか。自分の国の話でありながら知識がなかったことや、広島を訪れて原爆の悲惨さにショックを受けたことが、活動の基盤になったと、住職は、その記事の取材で話されている。そして、原爆の火を保存することで、宗教家としての役割を果たせるのではないかとお考えになったとのことである。ただ、祈っていれば平和が生まれるということではない、現実の問題と直面することが大事なのだという住職のお考えに私も賛成である。
 今でこそコスモスの寺として有名な般若寺であるが、実は、偶然、庭の隅に咲いたコスモスが広がっていったものらしい。そして、今では、日々の住職の手厚い世話のもと、境内を埋め尽くすほどのスケールに広がったのである。ボランティアの方々の支援もあると聞く。平和活動も、住職のように、たった一人の活動から始まることも多いと思う。それが、少しずつ少しずつ広がっていく。輪が広がる。お会いできて、よかった。お話ができて、本当によかった。私の心も、コスモスが咲いたかのように、桃色に染まった。そして、更なる勇気をいただいた。
 駐車場の係の方も、住職も、コスモスはもう終わりだとおっしゃったが、それでも、あちらこちらに咲いていた。住職は、咲き終わった花を丁寧に摘み取っていらっしゃるのであろう。残っている花もきれいだった。可憐に咲いているコスモスと石仏をカメラにおさめることができた。私の撮影中に、娘たちは、ちょうど公開中だった秘仏の「白鳳阿弥陀如来立像」を、交代で見学に行った。境内に足を踏み入れるとすぐ目に入ってくる十三重の石宝塔から、発見されたものだそうだ。手足の大きな、微笑みを浮かべた阿弥陀様は、胎内に、大日如来・地蔵菩薩・十一面観音立像を入れていたらしい。その三尊も公開されていたのだが、平安時代のものとは思えないほど、全く朽ちておらず、彫刻は本当に美しかったと娘たちは感動していた。
 名残惜しかったが、もう一度、娘や孫たちと、塔内に多数の宝物が納められていたという石宝塔を仰ぎ見て、ストーンパワーをいただいて、般若寺を後にした。奈良ホテルに妻を迎えに行く途中、車中から、東大寺や興福寺を眺めた。鹿が横断歩道を渡り切るまで、車がゆっくり待つという奈良ならではの光景も微笑ましかった。その後、娘たちに、平城京跡まで連れていかれた。不思議に思っていると、ここには、ススキの群生があるという。暮れゆく空を背景に、朱雀門とススキを、夢中になって撮影した。
 翌日は、次女が、どうしても、皆に「大和三山」を見せたいといい、橿原市にある藤原宮跡に連れていってくれた。明日香には写真撮影で訪れたことがあるが、藤原京は初めてであった。ここは、橿原市と明日香村にかかる地域にあった、飛鳥時代の都城である。日本史上、最初の条坊制を布いた本格的な唐風な都である。六九四年から七一〇年、つまり平城京に遷都されるまでの日本の首都であった。大和三山、つまり、畝傍(うねび)山(やま)・耳(みみ)成(なし)山(やま)・天(あまの)香(か)久山(ぐやま)は、この都を囲んでおり、いずれも、形のよい山で、、万葉集にも登場する。前夜、宿で、孫たちが、今どきのスマホのアプリで調べてくれたところ、この藤原宮跡には、今、コスモスが群生していると教えてくれた。コスモスは残念ながら少し時期は過ぎていたが、少し霞む大和三山を見ながら、とてもおおらかな気持ちになれた。
 次の候補地は、西ノ京。春日大社や東大寺は、以前奈良を訪れた際に、足を運んでいるが、西ノ京は、撮影意欲が湧かず、奈良に来ても避けてきた。実際、何十年も前に見た唐招提寺は、天平の甍は立派だったが、緑が少なく、白い広いお寺というイメージしかなかった。しかし、南大門をくぐって驚いた。カメラを構えると、国宝金堂の前に、木々が映り込む。いくつもの伽藍が、緑に囲まれていて、私は何回もシャッターを切った。少し早い紅葉も楽しめた。
 薬師寺も訪れた。ここは、東塔の全面解体修理が進む。来年春には完成予定だそうだが、娘や孫は、足場やクレーンのある風景は、今にしか撮影できないものだと言って、レンズを向けていた。最初気が進まなかった私であるが、確かに足場の間から、相輪と水煙が見えると、二度と目にできない貴重なものを見ているような、歴史を伝える一枚を撮影しているような不思議な気持ちになった。昭和や平成の時代に復興された金堂や大講堂の中に安置された、弥勒三尊像や薬師三尊像を拝んだ。薬師如来の台座には、ギリシャ模様とペルシャ模様、そしてインドから伝わった力神、中国の四方四神が彫刻されていた。まさにシルクロードが集約された台座であるという説明を興味深く読んだ。今まで、京都に桜や紅葉の撮影に出かけても、実は、私はあまり仏像は見てこなかった。自然の中の被写体をさがして歩くだけで精一杯だったからである。しかし、今回は、すべて車椅子。スロープを、娘や孫娘が苦労して運んでくれた。(実は、時には、何かにぶつかった衝撃で、ひやっとすることもあったが、それは伏せておこう。)おかげで、美しい仏像に感嘆することができた。また、日本最古の仏足石というものを見学することができた。釈迦が没した後、数百年は、仏像を拝まず、その教えを学び、修行に明け暮れるというのが仏教徒の日常であった。尊い存在は形に現してはならないという習慣があったため、仏像はつくられなかったらしい。そこで、まるで、釈迦が目の前にいることを想像できるように、足跡を石に掘ったとのこと。七五三年、ちょうど、鑑真が六度目の挑戦でようやく日本に到達した年に掘られたという仏足石を目の当たりにして、私は感動した。
 こうして、二日間の奈良の旅は終了した。仏像の神々しさに触れ、自然の美を楽しむこともできたが、やはり、なんといっても心に残ったのは、般若寺での住職との会話である。核兵器のない世の中をつくりたいという同じ志を持つ人に会えたことは、本当に嬉しかった。次はどこへ行こうか。どんな話ができるだろうか。秘かにプランを立てている私である。
2019年11月14日 記す



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