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2020年2月13日

日々雑感 第三十話 及部十寸保

第三十話  「カメラとの日々 その一」
 正直言って、私の写真は上手とは言えない。フィルムの一眼レフを十年、その後ブランクを経て、デジタルの一眼レフカメラで被写体を追ってきた。歳月をかけたわりには、様になっていない。それは充分わかっている。それでも続けてきた。なぜかと振り返ってみると、単純に、レンズを通して世界を見ることの面白さから離れられなかったということもあるが、写真と出会ったおかげで、自分の世界が広がったからである。それを、ひとつひとつ思い出してみたい。

  カメラとの出会い

 私は、退職後、病にかかり、それがきっかけで鬱病になった。それは、一九九五年の暮れから一九九六年にかけて、とても重い状態になった。このままではいけないと思いながらも、自分ではどうすることもできない。心配して、教え子の鈴木秀雄君が訪ねてきてくれた。彼は、いわゆる優等生ではなかった。それどころか、高校時代の彼が属していたグループは、一人一人は気のよい生徒なのだが、集団になると何かと問題を起こしがちだった。彼の友人たちがトラブルを起こすたび、私は、生活指導主任の教師宅の玄関の土間に頭をつけたものである。担任がここまでやってくれるのかと、目が覚めたようで、徐々に秀雄君のグループは私に近づいてきたのであった。高校時代の恩返しがしたいのだと彼は言った。「先生、どこかの写真教室に入って、初歩を教えてもらうといい。時間ができたら、いろいろなところに、先生を連れていってあげるよ。」当時、彼は大変な状況にあった。彼の家業である縫製業はどこも不景気で、倒産が相次いでいた。しかし、彼は諦めずに、粘り強く取り組んでいた。そんな中でも、わずかな時間を見つけて、彼は撮影し、鈴木琇雄という名前で、コンクールに出品していた。彼のそういう姿勢を見て、私もカメラを始めれば、自分が変われるのではないかと考えた。実際、主治医からも、なにか夢中になれるものをさがしましょうと言われていた。
 しかし、カメラというのは、あまりにも未知の世界であった。自分が夢中になれるとは、当初は思えなかった。私は、さんざん悩んだ末、勇気を出して、NHK文化センターに受講を申し込んだ。だが、どの教室もいっぱいだった。カメラとは縁がなかったのだと諦めかけたとき、「立岩教室なら、空きが一席ある。」という連絡をもらった。一つしかないと聞けば、迷ってはいられなかった。受講を正式に申し込み、豊橋駅近くの黒塗りのお店に立岩先生を訪ねることにした。先生は話好きなので、いつも数人のお弟子さんが先生を取り囲んでいた。その日も、店にはお弟子さん二人がいらっしゃって、先生は、その方たちの意見を聞きながら、私のために、カメラやレンズ、三脚を手際よく選んでくださった。この時点で、私は自動的に「ポイント」というグループの一員になり、大塚氏と芳賀氏と知り合うことになった。このお二人には、教室以外でも、たびたび撮影に誘っていただき、大変お世話になった。

  被写体との出会い

 一般に、写真を習い始めるときは、花を被写体にするのか、風景を被写体にするのかという選択肢がある。偶然、空席があったという理由で立岩教室を選んだ私は、流れから考えると花をテーマにするところだが、それ以前に、秀雄君の存在があり、彼の写真を目にしていたので、花よりも風景の方に心を惹かれた。しかし、撮影に度々出かけるようになって、この地域には、全国に誇る葦毛湿原というすばらしい植物の宝庫があることを知った。私は、被写体として、花と風景の両方を追うことになった。
 立岩教室の野外実習の初回は、県民の森での撮影であった。車を運転できない私は、先輩たちの車に乗せてもらっての参加になった。その日は雨だった。車を駐車場に停めると、皆さんは三脚を持って我先にと走っていった。雨の中、いったい何を撮るというのだろう。私には見当もつかなかった。それは霧だった。近くの森にも遠くの山にも霧が出ていたのである。霧は皆が撮りたがるものだということをこのとき初めて知った。
 県民の森には、ササユリが咲いていた。ただ、私がその日学んだことは、三脚の立て方だけであった。もたもたしている私の傍らに来て、先生が教えてくれたのである。それだけだった。後は、教室の仲間に教えてもらえとおっしゃった。写真の技法、露出、シャッタースピードなど全くわからないまま、私は、先輩方の真似をして、とりあえず撮影した。何をどうすればいいか全くわからなかった。その後も、私は、ササユリの季節が来るたび、撮影に出かけたが、それは、この日、なにもできなかったことが起因しているかもしれない。私が最初に出会った被写体は、霧とササユリで、これは永遠のテーマにもなった。
 この日、撮影について、何もわからず困り果てた私の前に、助っ人が現れた。不安に陥った状況で帰宅した私を待っていてくれたのは秀雄君だった。合同印刷のコンクールで優勝し、五十万円の賞金を得たという。受賞作品は、本当にいい作品であった。
 秀雄君は、約束を守った。「伊良湖に日の出を撮りに行こう。」と誘ってくれたのである。前日の夜、私はなかなか寝付くことができなかった。しかも、雨が降り続いている。本当に撮影できるのだろうか。興奮と心配で目はますます冴えてしまった。深夜二時半に、秀雄君は、鈴木健二君と一緒に迎えに来てくれた。心配を口にする私に、秀雄君は、「この雨は間もなくやむ。雨上がり、太陽は赤く、海岸線を染める。最高の写真が撮れるよ。」と自信たっぷりに言った。言葉どおり、雨は次第にやみ、やがて、東の空に、真っ赤な太陽が昇った。私は、つるつる滑る岩を注意深く昇り降りしながら、秀雄君にいろいろ教えてもらった。彼のアドバイスを聞きながら、夢中でシャッターを切った。晴れた日の太陽はもちろん素晴らしいだろう。しかし、雨の日にも、いや、雨上がりや、雨だからこそ撮影できる光景もあることを私は知ったのである。
 秀雄君に、次に連れていってもらったのが田貫湖である。富士山頂から昇る日の出を撮りにいこうと言われた。ダイヤモンド富士というのだと彼は教えてくれた。夜の十時頃に出発すればいいのかなと勝手に思っていた。ところが、彼は夕方には迎えに現れた。仕事が終わって、すぐに駆けつけてくれたのだ。私は驚いて、慌てて仕度をした。何故、こんなに早く行かねばならないのか、車中、私は不思議に思っていたが、現地に着いて驚いた。田貫湖の周りには、人、人、人。三脚が林立していた。千人以上のアマチュアカメラマンがいたと思う。これ以上遅かったら、三脚を立てる場所はなかった。あとは、朝日を待つだけであった。ところがである。真夜中には見えていた富士山が、明け方、消えたのである。これでは絵にならない。全国から集まってきた大群衆が一斉に溜め息をつき、また、全国に散っていった。あのときのことは忘れられない。そして、私も、そのカメラマンたちと同じ、富士(不治)の病に感染した。撮影できなかったことが、逆に火をつけた。精進湖、西湖、河口湖、山中湖、本栖湖。富士五湖に何度行ったことだろう。いや、何度、仲間に乗せてもらったことだろう。富士は私の追い求めるテーマのひとつになったのである。
 カメラに慣れるには、とにかく、ひたすら撮影すること。ちょうど、ヒガンバナの時期で、立岩先生が、撮影スポットを何か所か教えてくださった。しかし、私は車の運転ができない。義兄の荒木栄一氏が車を出してくれた。おかげで教室に課題を提出できた。彼岸の時期にしか出会えないヒガンバナを、私は、その後、何回も撮影している。群生に出会えたときの感動は何とも言えない。前年に咲いたからといって、次の年に必ず咲くとは言えない。気象条件にも大きく左右される。花も、霧も、朝日も、富士山も、すべての被写体が、一期一会。自分が今まで何気なく見ていた世界が、輝き出した。すべてのものが被写体なのである。自分の目が、自分の心が、一気に外に外に開放されていった時期であった。

  数々の失敗

 最初は、緊張するばかりだった、立岩先生の写真教室だが、少しずつ、先生のお弟子さんたちと打ち解けていった。特に仲良くしていただいたのは、成章高校の校長だった榊原剛氏、南部中学校の校長だった原田清務氏である。ときどき、郵便局長だった佐藤氏も加わった。静岡県の富幕山、豊田の王滝渓谷に一緒に行った。あるとき、渓谷の流れの近くで、フィルムをカメラに装填していて、フィルムを流してしまい、長時間、皆を待たせてしまった。榊原氏が小さな声で「及部氏はつきあいにくいぞ。」と仲間にささやいているのが聞こえた。あまり良い気持ちはしなかったが、自分の失敗だから仕方がない。しかし、榊原氏は口は悪いが、心はとても優しい人だった。「あんたは、私の弟のような存在だ。」と言って面倒を見てくれた。カメラに貼るようにと、住所と名前の入ったシールまで作ってくださった。
 川売(かおれ)のウメを撮影に出かけたとき、レンズを落とした。落としたことすら気がついていなかった私は、新城署から連絡をうけたとき、ショックを受けた。しかも、新城署まで公共機関を利用していかねばならず、届けてくださった方への謝礼もしなくてはいけなかった。そういうことを経験して、少しは注意するようになればいいのに、生来、忘れ物・失くし物の多い私には無理であった。しかし、榊原氏の名前シールのおかげで、高いレンズが無事私の元に戻ってきた。ありがたかった。
 そのすぐあと、多米峠の近くの池に、そのレンズを落としてしまった。せっかく戻ってきたカメラなのに、榊原氏に申し訳ない。慌てて、水の中に入り、必死に拾い上げ、近所のビッグというカメラ屋に持ちこみ、乾燥庫に入れてもらった。幸い無事に使えるようになったときは、胸を撫で下ろした。
 ポイントのグループメンバーである白井氏と山中湖に行ったときには、撮影のために立てた三脚を置き忘れた。西湖周辺まで来たあたりで、そのことに気づき、運転してくださっていた白井氏に、プロのカメラマンの甥にもらった三脚だから、どうしても失くすわけにはいかないと懇願し、戻っていただいた。さすがの白井氏も、呆れかえっていらっしゃったことを覚えている。挙げればキリがない。撮影に出かければ、なにか、必ずひとつ失敗があった。本当に上達する人は、道具を大事にするものだ。こういう失敗はしない。こんなことを繰り返している自分が、本当に情けなかったが、撮影仲間があれやこれやとフォローしてくれたおかげで、最初購入したカメラ道具は、ひとつも欠けずに、今も私の手元にある。
 無知ゆえの失敗もある。父母の会で知り合った跡見さんにフクジュソウを撮りに行かないかと誘われたときのこと。フクジュソウといえば、雪の中から顔を出すというのが定番だが、撮影に行ってみたら、雪がなかった。それならば、雪をどこかから運べばいいと、私は考え、跡見さんに頼んで、茶臼山まで行ってもらった。フクジュソウの周りに、雪を置いた。ホクホクした気持ちで撮影し、教室に写真を提出したところ、先生から、「これはインチキだ。」と指摘を受けた。「フクジュソウというものは、根とか花に熱を集める。だから、その周りは、雪が少し溶けていないとおかしい。」撮影するためには、花の生態への関心や知識が必要だということを知った。植物図鑑を買い求め、勉強するようになった。
 こんなこともあった。以前にも書いたかもしれないが、戦死した義兄の慰霊の旅、サイパンでの出来事である。甥の案内で、素晴らしい夕焼けに出会えた。スコールの後の夕陽。絶景に夢中になり、シャッターを切り続けた。何回も何回も。そして気づいた。おかしい。フィルムは三十六枚だ。こんなに撮影できるはずがない。恐る恐るカメラを開けてみると、なんと、フィルムが入っていなかった。まさしくカラーフィルム(空フィルム)だった。取り返しのつかないことをしてしまったと、足取り重く宿に帰ったときのことは、今でも忘れられない。

「カメラとの日々 その一」 2020年1月4日 記す



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