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2020年2月20日

日々雑感 第三十一話 及部十寸保

第三十一話  「カメラとの日々 その二」
  技術の向上を求めて

 立岩教室「ポイント」では、隔週で、野外実習と、それを先生に見ていただくための屋内教室が実施されていた。その他、年に数回の撮影研修があった。一泊二日で撮影に行き、先生に批評していただいた。スライドにしたポジフィルムを提出すると、毎回、先生が、一枚一枚丁寧にチェックしてくださり、〇や△をつけてくださった。大変勉強になった。それらのフィルムは今でも大切に保管している。このポイントには、前述した、大塚氏、芳賀氏、榊原氏、原田氏、白井氏、伊藤氏、越智さん、榎本さん、大山氏、藤原氏、広田氏らがいらっしゃった。
 花について深く知るために、まず、花の名前を覚えようと思っていたときのこと。榊原氏と松下滋氏と共に、戸隠に、ミズバショウの撮影に出かけた折、たまたまチラシを目にした。いがりまさし氏の写真展が開催されていると書かれていた。いがりまさし氏は、桜丘の音楽科の教師だった猪狩先生の息子さんである。また、昔住んでいた老松町のご近所さんでもある。早速、会場に足を運んだ。「野草のおぼえ方」という本を買い求めた。サイン入りの貴重なものである。そこには、「ヒトリシズカ」があれば、「フタリシズカ」がある。源氏の大将、熊谷次郎直実の「クマガイソウ」もあれば、平家の大将敦盛の「アツモリソウ」もある。「キンラン」に「ギンラン」。そのように、対にして覚えていくのがいいと書かれていた。名前を覚えると、実際にそれが咲いている場所に行きたくなる。
 手元に一冊だけ撮影ダイアリーがある。長続きしない私ゆえ、四か月しか記録は残っていないが、それを見てみると、
 「 三月二十二日 田原大草にモクレン。翌日、上矢作でフクジュソウ。二十五日、近所のサクラ、午後は西川でカタクリ撮影。二十六日 大原調整池でシュンラン、スミレ、サクラ。二十九日、身延山でシダレザクラ。その後、本栖湖へ。四月一日 カタクリ、シュンラン。四日に薄墨桜。五日に石巻のヒトリシズカ。」日をあけず、あちらこちらに撮影に出かけていることがわかる。
 葦毛湿原は、一週間に一度は、歩いて出かけた。四季折々の変化を楽しんだ。ショウジョウバカマ、スミレ、ハルリンドウ、ミカワバイケイソウ、カザグルマ、トキソウ、カキラン、サギソウ、ミズギク、シラタマホシクサ、スイラン、ウメバチソウ。名前を挙げたらキリがない。
 立岩先生には、葦毛湿原の他にも、この地には、丸山という花の宝庫があることを教えてもらった。キンラン、イカリソウ、ムラサキセンブリ、ヤマラッキョウ。ちなみに、ここには、「世界の桜の園」がある。岡田真澄氏という新城中学の元校長先生が、植樹して造られたもので、シーズンになると観光バスが来るほどである。
 風景を撮影する技術については、立岩先生だけでなく、田原の写真家須ケ原光弘氏の元に四~五回通った。撮影に出かけた先で知り合った。甥の荒木秀明氏にもテクニックを教わった。甥と義兄たちの北海道旅行に同行させてもらい、小樽や積丹半島で撮影をさせてもらった。
 秀雄君の撮影仲間とも知り合うようになって、蜂須賀氏・飛田氏とも懇意になった。その縁で、蒲郡の写真集団「雲」の例会を見学させていただくこともあった。「雲」のメンバーの皆さんに呼びかけて、裏磐梯に撮影に出かけた。一年に一回、それが五年程続いた。秀雄君、蜂須賀氏の他の「雲」のメンバーとの結びつきが深まっていった。
 私は、自分からよびかけて写真集団を立ち上げることにした。一九九九年のことだったと思う。白井氏に代表をお願いし、会員十一名で活動をした。白井氏と共に乗鞍に撮影に行ったとき、虹が出た。彼は、フィルターを使用して、それを撮影した。虹の色が強調された作品となった。それを見て、グループ名を「虹」と命名したのは、私である。「虹」は、毎月一回、吉田方地区市民館や茶房田園という喫茶店で勉強会を開いた。各自、撮影してきた作品を見せあい、意見を言い合った。グループ全員での機会はなかったが、メンバー同士、二~三人ずつ誘い合って撮影に出かけた。年に一回、発表の場を設けた。途中からギャラリー亜鳥絵にお世話になったと記憶している。一緒に風景写真を撮影に行ったのは、白井氏との回数が一番多い。ご自分が出かけるときは必ず乗せていってくださった。
 ギャラリー亜鳥絵は、ポイントの一員のときから、ずっとお世話になっているが、撮影も田中ヒロフミ氏にお世話になっている。奈良の又兵衛桜や明日香の石舞台の写真など、カメラにおさめた。
 いろいろな方と撮影に出かけた。いろいろなご縁があった。通院していた知久接骨院で、院長の知り合いの方の写真を目にして、ぜひ、一緒に撮影に行きたいと思った。連絡先を教えてもらい、図々しく電話をかけたところ、快諾してくださった。高須幸彦氏といわれる。霧が峰や八ヶ岳、車山高原など、ひと月に一回は誘ってくださった。荒木秀明氏の友人で、虹のメンバーでもあった中村氏も、誘ってくださった。彼とは、富士五湖に出かけたり、三島由紀夫の小説の舞台である神島を撮るために伊良湖に行ったりした。

  思い出の撮影スポット

 撮影には、日帰りもあれば、車中や山小屋での宿泊をして、一泊二日で出かけることが多かった。
 春には、サクラ。山梨の身延桜や神代桜、中川村の望岳荘や西尾一本桜、根尾の薄墨桜、吉野の千本桜、清内路の黒船桜、阿智村の駒つなぎの桜など、毎年、情報を得て、出かけた。
 夏には、山。初夏に咲くレンゲツツジや盛夏に咲くニッコウキスゲの撮影で霧ヶ峰へ。コマクサは群馬の白根山。上高地、戸隠、乗鞍、栂池、御嶽山など、景色と山容と高山植物を求めて出かけた。
 秋は紅葉。志賀高原や奥志賀の峠や沼の撮影に度々出かけた。秋から冬にかけては、前述のように、白井氏や「雲」のメンバーとマイクロバスを借り、裏磐梯へ出かけた。写真雑誌で、ペンションのオーナーが撮影ガイドをしてくれるという記事を読み、皆を誘った。「ホンネで勝負」という名前のペンションだったと記憶している。檜原湖が特に素晴らしい。国立公園の中で唯一、自然がそのままの形で残っている。ガスが流れる湖面を撮影した。
 冬は、氷と雪の世界。茶臼山の樹氷に夢中になった。太陽柱との偶然の出会いを楽しんだのも冬である。
 一年を通して、よく訪れたのは、伊良湖や浜名湖。冬の日の出や、夏の怒濤のような波しぶき。夕陽。何回通ったかわからない。

  思い出に残る撮影旅行

 まずは、東北。娘婿が金婚式のときには健康でいられるとは限らないと言って、結婚四十五周年のときに、旅行券をプレゼントしてくれた。妻の姉妹や義兄たちも同行し、五人で、青森・岩手に旅をした。事前にJTBの旅行代理店に何回も足を運び、入念に打ち合わせをして、旅行のしおりを作成した。弘前城の桜は素晴らしかった。堀に散った花びらや、城の周りの大木の桜がことさら目を引いた。八甲田山にはロープウェーで登り、奥入瀬川では散策をした。渓流の美しさには息をのんだ。滝や、千変万化の美しい流れは、今も心に残る。早朝の十和田湖で漁船が行きかう風景は忘れられない。
 しかし、なんといっても、一番の思い出は、秀雄君、秀雄君の弟さんの前田氏、日恵野氏との北海道旅行。行きは太平洋フェリー。名古屋から出発、仙台で停泊し、室蘭に到着。三十六時間の旅。帰りは、違うルートを使おうと、日本海フェリーを選んだところ、八時間で到着する予定がなんと十三時間かかってしまった。小樽を出発し、佐渡ヶ島が見える辺りまでは順調だったが、台風が襲来。敦賀港で接岸できず、大変だった。揺れで船内を歩くこともできないので、寝ようとするが、ひたすら汽笛が聞こえる。それが轟音なのだ。長時間続き、たまらなかった。
 しかし、撮影自体は、素晴らしかった。富良野を通り、広々した赤い土の美瑛へ。拓真館を見学した後、十勝岳。襟裳岬を通り、釧路湿原へ。釧路湿原は、川が曲がりくねって流れ、薄く氷が張る寒々とした光景が見られた。楽しみにしていたタンチョウヅルは雪裡川の流れる鶴居村で出会うことができた。マイナス三十度を超えることを願って、訪れた場所であったが、実際に超えると、すべてのものが凍るということを思い知った。三脚の伸長用ネジも凍り、三脚の足を伸ばすことができなくなった。経験豊富な仲間たちは、三脚の手入れをきちんとしていたので、無事だったが、私にはそのような知識はなかった。いざ撮影しようとして、トラブルに気がつき、急きょ、橋の欄干にカメラを固定するしかなかった。そのため、低いところしか撮影できなかったのが、今でも悔やまれる。皆は、三脚がしっかり固定されていたので、ズームが利き、タンチョウヅル中心の写真になったが、私のは、ツルがとても小さかったのである。ただ、それがかえって功を奏し、雪裡川から立ち上る霧のすごさを表現するものになった。私にとっては思い出の一枚となった。
 弟子屈町に住む水越武氏を訪ねたことも忘れられない。ご兄弟が桜丘高校の卒業生。東三河のアマチュアカメラマンにとって憧れの存在。面識もないのに、ファンの心理で、突然訪ねてみた。ご夫婦は、地元でとれた食材で、ご馳走をふるまってくださった。皆、大喜びだった。水越氏は、おっしゃった。「ここに住むと、撮影スポットのどこに出かけるのも一時間で行ける。釧路も常呂も網走も。」
 その後、私たちは知床を訪れた。知床五湖の美しさや羅臼岳の眺望、オシンコシンの滝の壮大さ。ロケーションの素晴らしさを堪能した。野付半島には、四角い太陽を求めて足を伸ばした。残念ながらお目当てのものは撮影できなかったが、目の前には、雪を被った国後島が横たわっていた。「この世の果て」と呼ばれるトドワラ。立ち枯れの木々に、荒涼とした湿地。海に突き出たかぎ針のような形の半島では、貴重な景色を見ることができた。
 原生花園を通過し、網走へ。サロマ湖ではアツケシソウを撮影。大雪山は雪のためゲート閉鎖だったので、上川のクマ牧場に寄った。小樽で運河を撮影し、前述したようにフェリーで帰路についた。九泊十日の長旅であったが、秀雄君と彼の弟と、桜丘高校の思い出を話し合ったことは忘れられない。また、車中、私たちは何度も叫んだ。「でっかいどー!北海道!」雪道に不慣れな秀雄君の運転では心細いところもあったが、とにかく大満足な撮影旅行であったし、記念に残る作品も多く撮影できた。


  デジタルカメラへ

 その後、私は病との闘いを再び強いられた。少し回復してきたとき、もう一度カメラを再開しようと思ったが、一瞬のタイミングを逃すことのできないフィルムカメラでの撮影は、私に緊張を強いた。軽々と運んでいたカメラやレンズ、そして三脚も、私には重すぎた。そんなとき、田中ヒロフミ氏から、デジタルカメラを勧められた。機械音痴のため、尻込みしていた私に、妻の姉、白井智子さんが、応援メッセージを届けてくれた。思い切ってカメラを購入した。中村氏が、セッティングをしてくださったことを感謝している。
 その後、私は、パーキンソン症候群を患う身となった。以前のカメラでは被写体をうまくとらえられなかっただろうが、今の科学技術は、私の足りない部分をフォローしてくれる。フィルムカメラにはやはり物足りない部分はあるけれども、デジタルカメラとの付き合いももう十年経過しており、ギャラリー亜鳥絵が企画する「桜展」「紅葉展」「水百景展」などへの出展もなんとか続けていられる。しかし、この間、写真仲間は相次いで亡くなっていった。横川氏に始まり、稲吉さん、秀雄君、白井氏。お世話になった方々がこの世を去っていかれたのは、本当に寂しい。特に、秀雄君のときは、病室に駆けつけ、最後まで応援したことは忘れられない。病床で自分の作品や彼の作品が見られるように、デジタルフォトフレームを見舞いに持参したところ、大変喜んでくれ、私の手をしっかり握ってくれた。蜂須賀氏の訃報が届いたときには、更に、ショックだった。最新の技術の力を借り、私が、ポジフィルムをデジタル化し、それをDVDに音楽と共に納めるという試みを始めた際、私の写真への復帰を一番喜んでくださったのが蜂須賀氏であったからだ。
 お世話になった方々は数えきれない。なんといっても、出展を呼びかけてくださるギャラリー亜鳥絵の田中ご夫妻には本当に感謝している。また、案内を出すたび、ご多忙にもかかわらず、見に来てくださる写真仲間や、山の会の皆様、卒業生父母の皆様、その後のリハビリ生活で知りあった皆様には、心からお礼を述べたい。私のカメラ人生は、まだまだ続く。
「カメラとの日々 その二」 2020年1月13日 記す



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