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2020年3月9日

日々雑感 第三十二話 及部十寸保

第三十二話  「愛知私学の授業改革フェスティバルに希望をもらう」
 令和二年二月十六日日曜日、孫の陵平が運転する車で、名古屋市千種区にある愛知高校で開催された第二十七回授業改革フェスティバルに参加した。
 これは、愛知私学の教員を中心に毎年二月に行われる「授業の祭典」である。授業をもっとわかりやすく面白いものにしたい。そして学校を良くしたい。教師の願いから始まった催しである。レポート二百本、教材六百本、それに公開授業を合わせて全八百五十本ものカリキュラムが、ほとんどの教室を利用して履行される。千人もの参加者があるという。この授業改革フェスティバルと夏休みに行うサマーセミナー、二つの行事が愛知の私学の教育を作っている。
 退職教員の会は、このイベントで毎年「平和」についての授業を行っているとのことで、戦争体験について是非話してほしいという依頼を受けた。私が今まで記した日々雑感の原稿を、昔の同僚であった橋本先生に郵送したところ、いくつか選んで事務局に送ってくださったとのこと。事務局の服部先生からお電話をいただいた際には、最初はお断りした。歩行器なしでは歩けなくなって、そのような場に行くのは皆さんに大変迷惑をかけると遠慮してきたからである。また、人前でスピーチすることから長いこと遠ざかってきたので、声が出るのか、話せるのか、とても心配だったからである。しかし、娘二人が「お父さん、本当は愛知高校に行きたいのでしょう。私たちが手伝うからやってみなさいよ。最後の授業だと思ってやってみたら。」と言ってくれた。上の娘は、浜松に住む子供に連絡をとり、車を出してもらえないか聞いてくれた。迷ったが、自分の子供や孫に反戦・平和といったことを話す機会は滅多にないと考え、話をお受けすることにした。参加した方々に(あんな体でも頑張れる)と思ってもらえるのではないかとも思った。
 そこからが大変だった。フェスティバル自体は、私の退職後に始まったイベントなので経験がなかったからである。杜若高校の紀平先生に、授業改革とは何かを聞くことから始めた。どんな授業にしようか、一か月半もの間夢中になって考えた。そうすることで、持病のパーキンソン病を克服する希望が持てるように感じた。講義一辺倒では面白くない。服部先生からも、私の日々雑感の中の「反戦教師」を皆で朗読しようと考えていると聞いた。そうだ。クイズあり、歌あり、朗読ありの授業にしよう。対話のある内容にしよう。一度提出した授業の骨子を作り変えた。直前になってレジメや資料も作り直したので、服部先生にはご迷惑をかけた。感謝している。
 最初は、太平洋戦争の戦況と自分の空襲体験、そして自分の反核・平和活動の話をしようと考えていたが、構想を練るうちに、どんなことがきっかけで太平洋戦争に向かっていったのか、そして、どんな悲劇があったのかについても伝えたいと考えるようになった。そして、柳条湖で起きた満州事変という挑発からあの悲劇は生まれたということや、多くの若者が犠牲になった豊川海軍工廠の悲劇が、軍の上層部の判断ミスから引き起こされたものであるという事実、そして、ビキニ環礁での水爆実験の後、原水爆禁止運動が日本中に広まったことなどを発表内容に盛り込んだ。声が届かないといけないと考え、戦況と自分の平和活動について娘に年表を作成してもらった。そして「記憶は薄れていくが、記録は残る」ということもメッセージとして伝えたいと考え、自分が今までにまとめた豊橋空襲や豊川海軍工廠の悲劇についての資料や、平和三部作と銘打って自分が行ってきた活動を記したものを持参することにした。自衛隊のイラク派兵反対運動の一環で新聞に全面の意見広告を出す運動に参加したことがあるが、その新聞も黒板に掲示しようと思いついた。歌は「原爆を許すまじ」を選んだ。下の娘が参加者の皆さんと一緒に歌えるようにと、いろいろ準備してくれた。原稿は三十ページにも膨らんだ。
 最後は何で締めようか。私は悩んだ。そこで、思い切って、私の尊敬する憲法学者である小林武先生にメッセージをいただけないかと連絡してみることにした。小林先生は、東三河九条の会を結成した際に一番最初にお招きした講師である。南山大学や愛知大学を定年退職された後、沖縄大学で客員教授をされている。先生はご多忙中にもかかわらず貴重な時間を割いてくださった。「軍用機やその部品の落下事故が後を絶たず、辺野古地区の新基地建設を強いられている沖縄は、独立国日本の一部であるとはとても言えない、沖縄には憲法も人権もない。」と先生は現状を説明してくださった。しかし、「沖縄の人々は諦めることなく意思表示を続けていくことでしょう」と、先生は結んでいる。太平洋戦争の爪痕は今なお残り、闘い続けている人々がいるということを先生は訴えてくださった。その原稿をいただき、七十五年近く原爆病に苦しみ闘い続けてきた被爆者の方々のことも言及したいと思うようになった。
 このように、フェスティバルの前日まで私の頭はフル回転。服部先生から送られてきた資料を見ると、愛知高校のすべての施設を利用し、まさに高校の文化祭のようにあちらこちらで授業が行われるということもわかった。となると、果たしてどのくらいの方が私の発表を聞きに来てくださるのか。誰でも参加できる、このイベント。どの世代の、どんなことに関心のある方が教室に来てくれるのか、皆目見当もつかない。最後は、当日目の前に座られた方々を見て、何に重点を置いて話すのか決めようと腹を決めた。
 さて本番当日。朝から大雨。前日夜遅くまで勤務していた孫が浜松から朝七時には来てくれた。発表は九時五十分からだからまだ早いかと思ったが、途中何が起こるかわからないので早めに出発。時間に余裕があると思ったが、会場に着き掲示物などいろいろ準備していたら、意外にも授業開始十分前になっていた。教室には高校生が次々とやってきてくれる。自分で授業を選んでくれているのか、割り当てがあるのかわからないが、嬉しい。教室はあっという間に満席になった。驚いた。同時に困った。私たち家族も三世代揃っているが、出席してくださった方々も年齢に幅がある。さて、どうしたものか。これは話を進めながら皆さんの反応を見つつ軌道修正していくしかない。
 いよいよ発表。まずは、皆さんに私の書いた「反戦教師」を朗読していただく。声が出るのか心配していたが、皆さんと一緒に声を出していたらその心配は吹き飛んだ。逆に皆さんからエネルギーをいただいた。大丈夫。話せる。
 次に、自分の名前の読み方について早速クイズにしてみる。幼いころから簡単には読んでもらえない、この名前。なんと読むと思うか問う。「としお」「としやす」と回答の声があがる。十を「ま」と読ませるとは誰も思わないだろう。そして、この名前が、実は私の生まれる一年前に起こった満州事変に由来するとは誰も気づかないだろう。狙いは当たった。そこから、満州事変、南京事件、真珠湾攻撃・・・太平洋戦争がどのように進んでいったのか、説明を進める。最初は原稿通りだった。しかし、ついつい脱線してしまう。南京事件の説明をするときには、勤務していた桜丘高校が当時南京師範大学附属中学校と交流をしていた自慢話を盛り込んでしまい、危うく、そのまま高校の宣伝をするところだった。隣に座っていた娘は、ハラハラ心配しどおしだっただろう。家では「こんなに長い原稿を一人では話せない。声がかすれるかもしれない。不安だ。」と言い続けていた私が、声をはりあげ原稿の順番を勝手に入れ替え、しかも脱線ばかりする。こんな調子では、言いたいことを漏れなく伝えられるのか、エネルギーが持続するかどうか、不安だったことだろう。しかし、私は、以前「うたごえ」の小杉先生からいただいたお手紙の内容を思い出した。小杉先生は南京虐殺記念館を見学した時の衝撃について書いておられた。どんなに悲惨なものであったかを皆さんに伝えなければならないと思い直し、本題に戻ることができた。
 一時間は、一瞬だった。それでも私は、自分の豊橋空襲体験や豊川海軍工廠の悲劇について伝えることができ、小さな挑発から悲劇が生まれること、だからこそ小さいことだと言って見逃してはいけないということを伝えられたと思う。全世界で同じような挑発が繰り返されている今だからこそ、若い世代にそれを伝えたいと強く思いながら話した。
 嬉しかったのは、皆さんと一緒に「原爆を許すまじ」を歌ったときのことである。娘たちは自分たちも知らない歌を皆さんが受け入れてくれるかどうか心配したが、私はどうしても歌いたいと押し切った。下の娘が用意してくれた掲示物が功を奏し全員で歌うことができた。この歌を知らない世代の方々も二番からは一緒に歌ってくれた。私は心が熱くなった。参加してくれた高校生の皆さんの顔を見て未来に希望を感じた。
 ただ、歌の後、例によって悪い癖が出て、私の頭の中に今あること、つまり、桜丘高校は卓球の松下浩二氏の母校だからオリンピックの卓球全日本チームを豊橋で応援したいという構想など、戦争からテーマを外して話してしまった。結果、時間切れになってしまい、反核・平和運動のことや「今なら引き返せる」というメッセージを伝えることができなかった。自分自身も中途半端に終わってしまった感がありもどかしく感じていたが、終了後、服部先生から送られてきた感想文を読んで感激した。どの世代の方も、私の伝えたかったことをきちんと受け止めてくださっていた。特に、高校生の方々は素晴らしい。長い文章を一生懸命書いてくださっている。そして、戦争は絶対にいけないという考えを述べてくれていた。皆さんの感想文によって授業は完結したような気がした。対話ができたという満足感でいっぱいである。
 私の発表の後、授業は、続いて平和についての詩の朗読会、そして憲法ビンゴというイベントで盛り上がっていた。政治や戦争、憲法に関心を持つ高校生をここでも数多く見ることができ嬉しかった。橋本先生や後藤先生、紀平先生も駆けつけてきてくださった。事務局の伊佐治先生とも話し合えた。また、昔、父母懇でお世話になった山崎さんや、聖霊高校の佐々先生にもお会いできた。特に、服部先生には大変お世話になり感謝している。
 会場となった愛知高校の規模の大きさにも驚いた。会場に着いたとき、それぞれの子供を公立高校に通わせた娘たちは驚きの声を上げた。「私学はすごい。」授業改革のイベントについては今までも聞いていたが、実際に会場に行って、その熱気を感じるのは格別な思いがあった。現職の教員だけでなく、退職した教員も卒業生父母も高齢になられた父母懇OBも一緒になって、私学づくりに一生懸命取り組んでいらっしゃる姿に胸が熱くなった。在職当時の思い出が一気に蘇ってきた。エネルギーがみなぎっていた頃の自分を思い出し、昔の自分にまた勇気をもらえたように思う。こんな体でもまだまだやれることがある。伝えられることがある。語り続けていきたいと思う。希望が湧いてきた。
「愛知私学の授業改革フェスティバルに希望をもらう」 2020年2月27日 記す



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