共立荻野病院コラム詳細
TOP > 共立荻野病院コラム一覧 > 中高年の健康戦略(4) 富士通川崎病院 院長 行山康
  • 診療科目一覧
  • 内科
  • 胃腸科
  • リウマチ・膠原病科
  • アレルギー科
  • リハビリテーション科
診療時間
  • 外来診療時間

    休診日
    月〜金 午前9:00〜午後12:00
    午後3:00〜午後6:00
    土・日・祝日・年末年始・夏季
    (3日間)
  • デイケア利用時間

    定休日
    月〜土 午前9:00〜午後4:00
    日曜・年末年始
  • 院内のご案内
  • 医師紹介
  • 共立荻野病院デイケアセンターフラミンゴ
  • 住宅型有料老人ホーム プメハナ

2020年4月24日

中高年の健康戦略(4) 富士通川崎病院 院長 行山康

 我々が住む世界は3つの階層より構成されている。まず物質的基盤或いは無機的基盤で、宇宙開闢以来、造られて来た原子、分子が主体である。地球では空気、水、大地、などの地球そのものが第一の階層となる。こうした基盤の上に生物世界が拡がる。これが第二の階層だ。動物、植物、微生物などで構成される。第三の階層は心的世界で、おもにひとにおいてとりわけ発達していると考えられる (以上は「万物の歴史、ケン・ウイルバー著大野純一訳、春秋社、1996年」)。
 最近は路地裏でも都会ではアスファルト舗装しているところが多い。そのような場所のちょっと日当たりが悪く湿った所では緑の苔が生える。或いは北アルプスの万年雪に覆われたところに夏の終わりに溜まり池ができる場所があるが、そうした這い松も生えないような生命不在と思われる場所でも池の石にしっかりと苔がはえていたりする。そうした苔はアスファルトに含まれる溶けた無機成分、万年雪とか石から溶けだした無機成分とわずかな太陽のエネルギー、空気を代謝して成長している。
 苔が地球の成分と太陽のエネルギーを取り入れて生命を維持し成長することと、我々人間が「食べる」ということをおこなうのとは本質的に同じである。 誰もが「食べる」の本質は生命維持にあることを知っている。
 中高年の健康戦略として「食べる」はいかにあるべきか。それは無意識に繰り返してきた「食べる」という行為の意味を問いつづけることがまず大事ではないかとおもう。そしていずれその意味を実感すること、それによって本当にこの世に生まれてこの世界を生きてゆくことの喜びがしみじみと味わえるのではないかと予感する。

 修行中の禅宗の僧侶では粥一椀とか極めて粗食である。心を磨き修行するためには「食べる」にともなう味の良さとか美しさなどは心を惑わせることとして排除する。そしてひたすら心の修行に専心することを原則とする 。「心的世界」が「食的世界」を抑圧する。
あるいはさらに極端な修行として、生命の危険すらともなう断食、断水などをおこなう。
「心的世界」は「生物世界」を抑圧する側面を持つ。断つことによって「食べる」の意味を問う。「食べる」によってつながっている「生物世界」、「生きている」の意味を問うと解釈できる。
 しかし「食べる」の意味は命を養うことであり、宝くじを買う意味を問うくらいに自明なことともいえる。生まれてこのかた、誰もがおこなってきた営みである。60年以上、無意識に当たり前のこととしておこなってきた営みの意味は十分体感してわかっている。それでも、もっともっと 深くわかるために修行するのではないかと想像する。

 口から食道、胃、小腸(十二指腸、空腸、回腸)、大腸(上行結腸、横行結腸、下行結腸、S状結腸)、直腸、肛門を消化菅といっている。食べ物のとおる道であり、からだの外でもある。食べたものは消化を受けて、低分子の有機物となって小腸まですすみ、ここで、植物が根から養分を吸収するように、からだのなかへとりいれられる。植物の根が大地という外の世界と接しているように、小腸は外の世界から養分を吸収している。大切なところなので滅多に癌とか潰瘍などの病におかされることもなく、からだの奥深くに保護されている。
 ひとりひとりの「食べる」は生物界のさまざまな形の「食べる」につながっている。それぞれの生物の「食べる」は別の生物の「食べる」につながり、命が命を養う形でつながっている。そしてその「食べる」は大地、太陽、空気などの無機的世界に根元のところでつながっている 。
 すなわち、私たちが穀類を食べ、魚を食べ、動物達を食べる時、それは間接的に、水、空気、大地、太陽のエネルギーを食べていることになるのだ。ひとは大地と生物界から孤立して生きる事はできない。そうすると、ひとりひとりの個人的ともおもえる「食べる」という行為は私たちが世界としてとらえているもの、すなわち全てが依存しあい互いに生かし生かされるという関係を直截にあらわすものではなかろうか。

 写真家は「撮る」において一瞬間に対象の本質を捉えて映像化しようとする。したがって映像化する対象に感性が鋭く集中する。一方、「食べる」は生まれてこのかた繰り返してきたことであり、慣れきったいわば「業」のようにも感じられる行為で、感性を集中してその本質にせまることはすくない。しかしだからこそ「食べる」の意味を問い直すことが大事ではないかとおもう。
 私は中高年者の健康戦略としての「食べる」は粗食でも毎日、大御馳走でもよいと思っている。 家族を養い、己が身を養い、働き、60数年を生きてきた。60数年を生き延びるだけでも大きな修行ではなかったか。「食べる」の意味を問い、実感するためにさらに修行を重ねる必要はない。それでも生まれてこのかたほとんど無意識に何万回となく「食べる」を繰り返してきたことの意味をいつか実感すべきだと思う。それは永久に果たされぬ夢のようなことなのかもしれない。
 小腸から吸収される低分子の有機物質は、炭素、水素、酸素、窒素、燐、硫黄などの分子で構成される。これらは宇宙開闢で゙生成したものが連綿と今まで続いてきているのだ。いわば140億年の寿命をもつ産物を取り込むことになる。よくよく考えると我々ひとりひとりの身体自体がそうした140億年を経た分子で構成されている。ここに思いをいたすとき、我々自身のからだは宇宙そのものであり、宇宙の生きている部分であると感得する。

 もし「食べる」を日々の生活の中で真に実感することがあったら、現在の日々はあまりでも余分でもなく、今こそ本当の人生と思えるだろう。そのような予感がする。



共立荻野病院コラム一覧へ戻る