2020年4月24日
入院する 佐藤東洋麿(横浜市)
その記憶は65年くらい前にさかのぼる。横須賀線の逗子駅をおりると、ロータリーの左前方に耳鼻咽喉科医院があった。そのころ私はとても風邪をひきやすく、すると喉が熱く痛くなるようで、そこに行ったのである。すると、
「ああこれは扁桃腺を取ってしまえばいい、簡単な手術だよ」と言われて言われるがままにした。ところが簡単にはいかなかった。
医師がどこか血管を切ってしまったらしく、喉から血が止まらない。血は食道を通って内側へも流れ、口から外へも出ていく。あわてて看護婦さんや医師がガーゼを詰めこむ。血まみれのガーゼを、いくたび取り替えたろう。呼吸が苦しくなる。「輸血!輸血!」とどなる声が聞こえてくる。気がつくと私は二階の座敷の布団のなかに寝ていて、心配そうな母の顔があつた。貧血にはトビウオの刺身が良いとだれかに教わって、近くの魚屋からそれを買ってきた。母はいまの言葉で言うとシングル・マザーで、シングル・マザーが極貧であることはほとんどの場合、不変である。母は七十三歳で死んだが、私は八十歳になってもまだ生きている。そして六十五年ぶりに、本格的な(?) 入院をした。緑内障および白内障の手術である。あおそこひ、と呼ばれた緑内障は、目玉の奥にある視神経が傷み、目を潤す水分が足りずだんだんと視野が狭くなり、やがて失明する。病いの進行は眼圧ではかる。16~19が正常のところ、私のは29くらいまでになった。
「もう手術しかありませんね」
そう言われても、亀田総合病院の堀江大介医師に出会わなければ、私は決断しなかったろう。初診のときに私の両目の端にさわった彼の指先のしなやかさ、繊細さで直感した。このひとは名医だ。思わず口走っていた。
「先生(いたむ)がしてくださるのなら、右目も左目も、手術してください」
私の半分くらいの年齢にしか見えない名医は、ほとんど笑みを浮かべない。病院の一階にひっそりと置いてあるパネルタッチの医師紹介欄でホ・リ・エと打つと、彼は南房総の出身で東京の大学医学部で医師となり二、三の東京の病院にも勤めたが、地元が好きで結局ここに来たという。趣味はサーフィン。そう、ここ千葉県鴨川市の海辺はサーフィンの人気スポットでもある。観るのが好きな観光客はイルカやアシカが水しぶきをあげるシーワールドに集まるが、自ら水しぶきのただ中の快感を味わいたければ、ボードをかかえて行く。六十年ほど前に外国人が始めてから、またたくうちに広まったと市の広報には出ている。
「それでは手術の日程をきめましょう。えーっと、五月二十八日でいかがですか?」
「はい、けっこうです」
いよいよ、と思うと恐怖が忍びよってくる。目玉の奥までメスが……。
ジタバタするのはよそう。私は賭けたのだ。そして賭けごとは好きなのである。勝ったときの気分の良さだけでなく負けたときの、あっ空っぽだというような爽やかさも知っている。こうして私は落ちついて当日を迎えた。
椅子の背を120度くらい倒して上から、医師が私の顔を抱え込む。手術は部分麻酔でなされ、しゅうしゅうと濃い霧状の液体がそそがれる。そこからの堀江ドクターの言葉は優しく的確で、私を感動させた。
「少し痛いですけど動くと危険ですからね」
そして私の右目を虹のような流体が絶えず潤す。橙や青や黄色が流れ続け、ジャリっとメスが目玉の下のほうにはいってくる音が痛みとともに私を襲う。私の左腕にはぐるぐると帯が巻かれている。
「5分に一度は血圧を計るので締めつけますよ」その後ろからナースらしき人が「230です」とささやく。
深呼吸をする。近くの主治医のところで、血圧を測るときに決まって「はい、深呼吸してもう一度」と言われることを思いだしたのだ。
「もうすぐ緑内障の手術は終わりますよ、次に白内障の手術をします」
私にはもう「はい」と答える気力がない。いつまでこの虹の流体は続くのか。突然、暗唱していた14行の詩の一節が浮かんだ。
(あらゆる匂いと色と音とが互いに応えあう)
ボードレールの「万物照応」である。麻薬でも吸うと、美しい風景を見るといい匂いがして実際以上に鮮やかな色彩をそなえ、しかもモーツァルトの心にひびく音楽が聞こえたりする、というが、厳しい痛みを伴うとはいえ、眼の手術でもそうなるのだ。
「もう終わりです。しばらく横になって休んでから、入院棟の病室に行ってください」
まだ元のままの左目にぼんやりと妻の顔が見える。あとで妻に聞くと、手術時間はわずか30分だったという。1~2時間と聞いていたのだが。1週間の入院中、妻は2キロ痩せた。最後の驚きは、術後二週検診で、右目の視力が1.2になったことだった。裸眼で1.2、ドクターへの謝意は増すばかりだ。
2020.3.30