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2020年5月7日

中高年の健康戦略(6) 富士通川崎病院 院長 行山康

 ぞうりむしという単細胞の生物は分裂するとすぐに活発にうごきはじめます。えさを探索する行動がとりも直さず、生まれてすぐに必要となるからでしょう。
 「人類の歴史の歩み」といったいいかたをすることがありますが、十数万年前に現在の人類につながる人がアフリカの森に誕生して以来、まさに人類は歩き続けて現在にいたっています。えさを求めて全世界、全地球に拡散し、やっと5千年ほど前に定住して文明の兆しが見えてくるまでは膨大な時間を歩きつづけたのです。すなわち「歩く」はひとにとってひとが現世人類という種として確立した時からの根源的な行為なのです。
 「歩く」が人間にとって何故、根源的かをもう少し詳しく述べてみます。「歩く」は移動をともないます。もともとは新たなえさを求める行動だったでしょうが、移動により新たな景色、新たな世界がひろがります。その感動と喜びが新たな「歩く」を誘います。未知の世界、胸がわくわくするような世界に出会うという期待から「歩く」をおこなうともいえます。
 また「歩く」は移動できるという自由の感覚を育てます。「歩く」は移動による新たな世界の広がりを予感させ、そうした世界へ飛翔してゆく自由さを実感させ、培ってきたようにおもいます。自由という伸びやかで広がりをもった感覚はひとが求めてやまないものです。赤ちゃんが立ち上がってにっこりと笑ってヨチヨチと歩き始める光景を想い起こして見ましょう。全身が自由という感覚を伝えてくれる「歩く」を得た喜びに満ち溢れています。もちろんこの自由の感覚はやがては社会に暮らす中で制限され変形され、組織化され、進化してゆきます。
 また現代では「歩く」は電車、自動車、バス、航空機、その他さまざまな機械的手段に取って代られて、あまりにもあたりまえに自由な移動が保証されているため、すべてが日常感覚の中に埋没しています。すなわち、「歩く」により移動するのも、機械的手段で移動するのもあたりまえで、そんなことに感心、感動するうつけものがいるかということになってしまいます。
 それでも移動にともなう期待とか弾んだこころは生活の一部でもある特殊化された行動により蘇ります。それは旅行です。旅行の前のあの弾んだ気分は日常から離れて移動することにより新しい景色とか世界が広がることを期待し、自分にとって未知であるものに触れ、体験することを期待するからでしょう。しかしそうしたこころの動きはもともと「歩く」に含まれ、「歩く」によって培われてきたことを銘記すべきです。
 このように「歩く」は生き生きとした自由な心の源泉となっています。何を「歩く」ことをためらう必要がありましょうか。

 中高年の健康戦略における「歩く」は命果てるまで生き生きとした闊達で自由な心を育てる手段となるものです。しかし、効率化、脳化の進んだ現代に育ったわれわれにとっては「歩く」は単なる移動以上の意味をもたなくなっていることも事実です。「目的もなく歩きまわるなんてことはやる気がしない」などというひともいます。それでも「歩く」が可能であることに感謝する気持ちは大切です。おおらかで伸びやかな気持ちの原点は「歩く」にあることを確信し、まず「歩く」をはじめましょう。
 問題はひとの生物としての制約から「歩く」がだんだんと不自由になってくることです。「老」の項でも述べましたように、中高年は生物としての限界が年を追うにつれてはっきりしてくる年代でもあります。「歩く」がひとに支えられたり、杖による補助が必要になったり、やがて車椅子、ついには移動が不能になる事態も想定されます。そこまで極端に考えなくとも、「歩く」はだんだんとおっくうになってきます。
 「歩く」が不自由で苦痛に満ちたものとなってくると、それによってもたらされる伸びやかさ、自由さに対する期待はなくなり、ただただ、うっとうしいものとなってきます。これはいたしかたのないことなのでしょうか。
 健康戦略上はふたつの道があるとおもいます。ひとつは多少不自由な感覚をともなおうとも可能な限り「歩く」を追求しつづけることです。からだと心の伸びやかで自由な感覚は「歩く」によってこそ可能であると信じて「歩く」を続けることです。「歩く」が苦痛をともなうものであっても、それを超えた世界があると確信して「歩く」を続けることです。バロック音楽のお好きな方は「アルビノーニのアダージョ」を思い出してください。この曲には重さを振り払いながらゆっくり「歩く」ような雰囲気があります。
 もうひとつの道は「歩く」がからだと心のくつろぎを与えないなら、心の中でのみ「歩く」を続けることです。中高年ではこのようなことが必要になるときが必ずくると覚悟すべきでしょう。大事なことはにっこり笑ってヨチヨチ歩きを始めたころの大きく世界が開けたあの感覚――簡単に思い起こせるものではないでしょうが――をイメージして、あきらめと鬱の気分にとらわれないようにすることです。ひとは精神的動物ですから「歩く」の自由で伸びやかな気分をこころに保持することが可能です。「歩く」をやめても常に世界の一隅に自由にくつろぐ自分を感じられれば言うことはないでしょう。

 どちらを選択するにしても究極的には命果てるまで自由で伸びやかな心のありようを追求してゆくことで、それが「歩く」を与えられ、経験してきたものの自然な姿です。今、もし「歩く」が可能であるならば足裏に伝わる大地の感覚にこそ喜びと自由さの原点があることをかみしめて、すすみましょう。
(この項終わり、以下に続く)



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