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2020年5月25日

日々雑感 第三十四話 及部十寸保

第三十四話  「青春謳歌~どんぐり座の頃」
            
 少年時代、私は人前でよく話ができず、すぐ赤くなった。原因は母親のせいだと思っていた。母は今でいう教育ママ。それも度を越していた。
 例えば、当時何より大切にされていた競書大会でのこと。講堂に全児童が集合して正座し、一礼。「始め」の合図で一斉に墨をすり筆をとる。すると、いつの間にか私の背後には母が立っていた。私の書く文字に少しでも乱れがあると咳払いして注意する。こんな親は他にはいなかった。最初、学校側から母の入場は咎められた。それでも母はかまわず私の傍に来た。そのうち先生方が折れた。それは、私が入学以来連続で「特一」をとっていたからである。
 豊橋市立羽根井小学校は、一九三二年(昭和七年)開校。同じ年に生まれた私が入学したときは、まだ新設校であった。ここでは二人の女性が有名であった。一人は私の母。母は、高等女学校を卒業するとすぐ代用教員になり、教育に関わってきたので、若い先生方から頼りにされていた。結婚後は私の父が営む薬屋の店番をしていたが、先生方は店に立ち寄って世間話をしてから帰っていかれたものである。もう一人は、小栗風葉の未亡人である。学校近くの八剣神社の脇に住み、学校で式典があると、必ず正装して現れ端然と座っていらっしゃった。私達はどういう方かは知らなかったが、中学生になってから、彼女が代表作「青春」を著した文芸作家の奥さんとわかった。上品な小栗夫人と比べると、母は小柄で色が黒く私は少し恥ずかしかった。母はしばしば学校に来た。彼女は負けず嫌いで、息子のためには何でもした。いつも自信なさげで小さく弱々しい我が子をなんとか変えようと必死だった。
 彼女は息子を人前で話せるようにしたいと考えた。そこで、私の近所の友達を家に招き、子供芝居をやらせたのである。名作を自己流に改めたシナリオを用意し、監督を務め、私達に芝居を指導した。そこでは、息子の私がいつも主役。友達らは私の引き立て役だった。だから、因幡の白兎という大国主命伝説の芝居では、主役の大国主命より、白兎は十センチも背が高く堂々とした体格であった。この劇は大変好評で、秋の文化祭等に特別出演をした。小さい大国主命が、背負った袋を担ぎきれず、舞台の床を引きずって歩く姿が大うけだった。
 しかし、こうした母の努力にもかかわらず、私の内気な性格は変わらず、自信をもてるようにはなかなかならなかった。自信というものは、自ら努力して達成したときに身につくもので、親から与えられるものではなかった。結局、母の自己満足にすぎなかったのだ。
 私がこんな自分を変えようと思い立ったのは大学に進んでからである。私は、市の社会教育課から紙芝居とその道具一式を借りてきた。そして夕刻、一人街角に立って、下校してくる児童らに呼びかけた。「紙芝居を始めるよ。希望者は集まってくださいね。」当時はまだテレビもなく、夕食まで時間をもてあましていた児童たちに、この紙芝居は好評だった。当時、本職の紙芝居屋さんには飴があったが、私にはなかった。それでも、五、六十人はすぐ集まった。夏休みには、近所の大学生森永尭君らを誘って、小学生を相手に勉強会をひらいた。
 そんな私達を見ていた近くの洋裁学校の中島千恵子さん(現姓杉田さん)ら女学生達から、人形劇をやらないかと誘われた。人形劇は当時大変人気があった。有名な劇団プーク座の公演を名古屋まで見に行ったこともある。準備段階では、女性陣は人形制作と人形使いを担当し、男声陣は会場や舞台作り・宣伝活動そしてセリフを言う役だった。公民館での公演を続けていると新聞でも紹介されるようになり、「あの人形劇を見て、うちの坊主も悪いことをしなくなった。」という親御さんの声も届くようになり、あちらこちらから出演依頼の声がかかるようになった。
 こうして、一九五四年(昭和二十九年)、私達は「どんぐり座」を立ち上げた。次第にメンバーが増え、秋には毎月一回映画批評会も開くようになったが、そのうち、子供達の創造力を伸ばすため、子供達が自分の手でできることをと、児童劇や人形劇の指導を始めた。当時の新聞は次のように報じている。

「さあ、今夜は『おおきなかぶ』の練習を始めるよ。君がおじいさん、君がワン公の役だよ。」
前田南町の家から毎晩のように、朗らかな青年達の声と、はしゃいだ子供達の声が聞こえる。
これは同町青年グループのヨイ子たちへの人形劇指導の一コマ。
学業や勤めの合間に半年余りも続け、町の人からも喜ばれている。
このグループを子供の日の話題として紹介します。

 どんぐり座としては、公民館・学校の講堂などで二十三回公演活動をした。手製の人形は二十体あった。脚本も自作を含め九本。「キツネの計略」(自作)・「賢くない兄と悪賢い弟」・「三匹の子豚」・「金の斧と銀の斧」・「おおきなかぶ」など。やがて、よその町の学生も参加して大所帯となり、児童福祉週間中も活躍した。
 公演活動だけでなく、団員が中心になって大学生だけでなく中高生も加わって、牛の滝や奥三河の乳岩峡などにハイキングに出かけた。大野市長夫人や愛知大学小幡・三好教授夫人も応援に来てくださって、大集団になって当時流行のフォークダンスを楽しんだ。
 しかし、同時期、私は地域にも信頼される新タイプの学生運動家として評価されるようになっていき、学生自治会や県学連の運動にも関わるようになっていった。こうなると、人形劇をしている余裕がなくなって、どんぐり座は結成三年で解散することになってしまった。解散会で思い出話に花を咲かせた後、私は申し訳ないと謝ったが、皆の心は温かかった。この直前、長良川河畔で一泊のキャンプを行った。長良川の清流で遊んだ、あの日の楽しさは忘れられない。翌朝早く、都合があり、森永君が一人帰宅した。その淋しげな後姿は今でも脳裏に焼きついている。
 喜びもあり悲しみもあった。正に青春時代の真ん中にいた。「♪若く明るい歌声に~」青い山脈の歌詞さながら、明るく爽やかで何か甘酸っぱい思いで過ごした日々、どんぐり座は私に自己変革をさせてくれた。人形劇の練習は、母を育てた尼僧さんのお寺で行なったが、毎回母はそれを見に来た。息子がしっかりと自己啓発をして、大きな声でセリフを言い、てきぱきと動き回る元気な青年になったことを、目を細めて見ていた。私も変わったが、母も変わった。
 後年、私はカメラや登山に夢中になったが、その力はどんぐり座で培われたものだと思う。
 どんぐり座の仲間達、お元気でいらっしゃいますか。

「青春謳歌 どんぐり座の頃」 2020年5月3日 コロナ・ウィルスで外出自粛の中 記す



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