2020年10月10日
中高年の健康戦略(さわり) 富士通川崎病院 院長 行山康
今回は中高年になると若い頃との健康の違いを意識することが健康戦略として大切で、さらにその「違い」を超えてゆくことで新たな世界がひらけるということを述べたいとおもいます。
「違い」はさまざまなかたちで生じています。まず、気力とか根気。頑張ろうとする気持ちが少なくなり、粘り強さが発揮できません。瞬発力、とっさの判断力、動態視力、筋力、からだの柔軟性、かんがえ方の柔軟性、記憶力、その他あらゆることが10年前とは違うのです。
ところで中高年の健康戦略として「気力,体力の違いを意識して健康維持につとめてゆこう」ということは当たり前のメッセージに過ぎず、誰もがそれなりに気をつけていることです。大切なことは「違いを意識して違いを超える」ということにあるようにおもいます。
熱意を持ち続ける、努力し続けることができることが天才であるゆえんだというかたもおるかもしれません。しかし、日々の営為などは案外と特別なことはないはずです。ほとんど誰もが少しでも努力すれば手の届くよう行動の積み重ねとおもわれます。ただ「違い」を理解してその「違い」を少しでも自分にちかづけようと努力してゆくことに意義があり、高度の健康戦略があるとかんがえます。
これはヨットとかスキーといった体育会系に限りません。調査、ボランティア活動、趣味など文化的な活動でも興味をもてることを地道に続けることがよいようにおもえます。生活の全ての面にわたって、若い頃のパフォーマンスに近づけようと努力する必要はないでしょう。自分にあっていることをほんのひとつかふたつ、こつこつと積み重ねてゆきましょう。
スピリチュアリティ
人生の黄昏を感じ、うつ的気分になったり、本当はやりたいことがいっぱいあるのに、年だからと言ってあきらめてしまう。徹底してあきらめるとみえてくるものもあるが、中途半端であると、いたずらに煩悶を繰り返すことになり、妙に愚痴っぽくなる。これは良好なスピリチュアリティとはいえません。
スピリチュアリティは統合され澄んだ快い感覚であるべきです。こつこつと目的に向かってすすむとか、自分の来し方を整理するといったことが理想なのです。しかしともに中高年を歩むものとして、現実の生活意識は必ずしも理想どおりにはゆきません。ひとはそれぞれに執着と制約が多いのです。それは良好なスピリチュアリティへ達することの妨げになるかもしれませんが、それが普通人の在り様ともいえます。
健康診断のデータとか医療上、明らかとなる自分の健康に関するデータは鏡に映った自分の姿のようなもので、なんらの自分の生き生きした姿を伝えるものではありません。
しかしそれにもかかわらず、現代人の常で客観的世界の確からしさに飲み込まれてしまいます。客観的世界は科学の発達のおかげでますます精緻になってきています。鏡の中の自分のほうが本当の姿であるとついおもってしまったりします。
すなわち、自分を客観視する気持ちと主観的なこころが同居して自分を常に引き裂いているともいえます。
こうした人間のもつ根源的二元性を救っているのが良好なスピリチュアリティと考えられます。すなわち根源にある二元性を統合し、鏡の中の自分も取り込んで一体化している姿が良好ナスピリチュアリティです。これは特別難しいことでなく、今、これを読んでいるあなた自身といっても間違いありません。
飲む
中高年になってアルコールが通過する道は細くなっているにもかかわらず、「飲む」こころが若いときの気分のままで調整されないと、人類最古の気分調節剤が過剰投与になってからだに障害となるおそれもあります。この点が健康戦略上で「飲む」についてもっとも気をつけねばならない点です。すなわち「飲む」は生活習慣のなかにいつのまにか無意識に埋め込まれているこころのくすりですが、中高年ではこころをささえるからだが変化しているので、からだの言葉によって相応に「飲む」をおこなうことが大切です。
信ずる
またさまざまな健康法を「信じる」ことも意義はあります。黒酢を飲む、紅茶きのこ、山菜、海洋深層水、ビタミン・ミネラルを摂る、風水にしたがう、乾布摩擦、運動、ジョギング、などその他まだまだ沢山の健康法があります。科学的で合理性にうらづけられたことだけを「信じる」べきだとはあえてもうしあげません。
健康診断,自覚症状,健康法のいずれも完全なものではないので、中高年の健康戦略として「信じる」を十分,吟味し、取捨選択する必要はあります。「信じる」はもともとこころの働きをなめらかにしていますから、ときには取捨選択の過程で不調となることもあるでしょう。それでもそうしたことを超えて、「老病死」にむかって何かを信じて向かってゆく姿勢が大切ではないかとおもいます。
性
「性」を意識し異性を求める気持ちが生きる力の一部となっていることも否定できません。この間の事情が谷崎潤一郎の「瘋癲(ふうてん)老人日記」にユーモラスにかかれています。また意識不明になった脳血管障害の高齢男性の隣のベッドに高齢の女性の寝たきり患者を寝かせておいたところ、脳血管障害の患者は信じられないような回復をみせたということも医療関係者で語り伝えられています。すなわち「性」は意識の上でも、無意識的にも生きる力の一部となっているとかんがえられます。
介護保健法が施行されるようになっていらい、日本の各地に「通所サービス」とか「デイケアー」といった日帰りの介護施設が増えています。
一日30人程度を受け入れる介護施設を見学したことがあります。女性の通所者は70になっても80になってもおしゃべりをして、おやつをたべ、編物をして20人くらいでにぎやかにからだの不自由をものともせず、通所サービスを楽しんでいます。男性で通所サービスへ通ってくるひとは2,3人、多くても4,5人で女性にくらべて圧倒的にすくない。しかも、男性の通所者は決められた席に凝然とすわっていてうちとけて互いに話し合うこともあまりしません。日本だけ、或いは小生が見学してところのみの現象の可能性もないではありませんが、関係者によるとほかの介護サービスの施設でも同様の傾向があるそうです。こうした男性の姿に社会人として家族を守り、養ってきた厳しさをみるおもいがしますが、一方で年を経ても男と女はどうしてこうも違うのかという念を禁じ得ません。
別れ
「別れ」はこのように日常的なことです。ほとんどの「別れ」の経験は樹上を風が吹き渡るように何事も無く過ぎ去ってゆきます。しかしときには「別れ」がおおきな衝撃となって健康と人生全般をおおうことがあります。犬や猫など、ペットが死んで立ちあがれないほどのショックを受けている方を何人もみかけてきました。まして 親しいひと、身近なひととの永遠の「別れ」は言葉に尽くせぬほど大変なことです。
それでも「別れ」は新たな出発の起点となっていることはいつも意識しなければならないでしょう。「別れ」という結節点の中にいるということを自分に言い聞かせ続けることが大事です。
「別れ」には「智」でも「理」でも制御しがたいような部分もふくまれます。そうしたことは健康戦略の対象外かもしれません。
頼る
「頼る」は宗教であれば神、私のように無神的にすごしているものにとっては先祖であり自然であり、ときに父などが支えとなっているとおもわれます。
現代人の孤独、こころの空白、不安といったことは直ちに中高年のメンタルヘルスの問題でもあります。意識のうえで或いは実生活のうえでの「頼る」べき年金、介護、よい家族関係、健康などはいつのまにか手ですくった砂がこぼれ落ちるように減ってゆきます。そうかといって焦りを感じているひとはすくないでしょう。大きな流れの中でなるようになるとおもっているはずです。しかしそうした安心感の一端は深層心理における「頼る」という気持ちが担っているかもしれません。
父の夢を思いがけずもみて、その意味を解釈すると、深い心理の奥底で「頼り」としている父のような存在があって心のバランスをとってくれるから日々平穏にすごせているようにおもえてなりません。
思い
退職後、調べたいことがあると何年も図書館通いをしているひとがいる。肩こり、目の疲れ、根気が続かないなどを症状として受診される。図書館通いよりは少しは体を動かす時間をとればとすすめするが、体調が悪いといいながら通うとことがやめられない。よほど強い「思い」で調べたいことがあるのに違いないとは考えますが、「思い」はバランスのよい健康状態を獲得することを妨げています。「思い」は生きる力となっていますが、「思い」をとげてゆくには、自分の健康に関して冷静な判断をして戦略をてないと、かえって「思い」から遠ざかってしまうことがあります。
「思い」と健康が調和しない場合もあると述べましたが、どちらかというと普通の意味での身体的健康は「思い」があろうとなかろうと少しずつ磨り減ってゆきます。たとえ百歳でスキ-が可能であっても身体的健康が磨り減ってゆくことにはかわりなく、これは誰も止めることはできません。
中高年はある意味では精神的、身体的に出来上がった世代で、現在に自足しがちです。特に退職されているかたはゴルフ、テニス,軽登山などのスポーツ、園芸、絵画、書道、ボランチア活動などさまざまな活動に「思い」をこめていることでしょう。
中高年での「究極の健康」とは毎日を新鮮な前向きな気持ちで生きて行く力であるとすると、しっかりした「思い」をもつことは全てに優先した健康戦略上のポイントであるようにおもわれます。
健康に長寿を保っているひとを見聞きすると、「やりたいことは全部やった、いつ世の中からいなくなってもいいんですよ」といいながら、それは言葉どおりでなく、強い「思い」をもって過ごしていることがわかります。
「思い」とは明日にかける橋みたいなもので、現在に自足することではない。ひとは生まれたときから、明日をみているので、明日に対する「思い」があるからこそ生きることが可能なのではないかと思います。
時間
健康に過ごせる「物理的時間」はかぎられているのだから、「今、ここ」を元気にやってゆこう。先のことは意識しないようにしよう、「自分の時間」を大切にしよう、これが普通のパターンでしょう。しかし「物理的時間」も少しは意識しておいたほうがよいです。世の中は「物理的時間」で動いているので「自分の時間」にはまりすぎると時には悩み、苦しみを生じます。
「物理的時間」が動かしがたい以上、自分の年からして平均余命も動かしがたく決まっているようにおもわれます。しかし「物理的時間」は精密になったとはいえ、約束事で決められていることにはかわりないのです。一年が365日で一日が24時間で1時間が60分などということは約束ごととして決められているのです。約束ごとですから4年に一度は366日になるし、秒針だって時々は調整されます。
一方、「自分の時間」は意識がある限り確かなものです。しかしこれは自分しか感じ取れない感覚です。「物理的時間」は約束ごとなので、時には意識から抜け落ちたり「約束を忘れてしまう」あやふやさがあります。健康に過ごせる時間は単なる約束ごとで「時間」が絶対的なものでないとしたら、この世の中は何か幻(まぼろし)のようだな、などと思うかたもおるかもしれませんね。
育てる
「育てる」などというものぐさな人にとってはやっかいなことでしかないでしょう。それがどうして喜びをもたらすか。それはこころの深いところで人間の本性とむすびついているようにおもいます。子供を「育てる」のは当たり前の本能的行為で、種の保存という生物界一般の原理につながっています。「育てる」は自分が目にかけたもの、手にかけているものが世の中に残り、存在する、それによって自分は世界とつながっているという気持ちを味わう、そうした気持ちをもたらすのではないでしょうか。「育てる」という気持ちは自分が世界と確かにつながっている快い感覚です。
「育てる」の反対は「壊す」でしょうか。「壊す」には壊して新たな創造をおこなうという積極的なイメージもあります。そうであったとしても、中高年のメンタルヘルスでは穏やかな「育てる」を推奨します。
人生を豊かにするのはゴルフでもなく、世界旅行でもなくて、日々の生活の中にあります。「育てる」の気持をもって、人、モノ、生物を深く観照してゆきましょう。孫の一挙一動に心を躍らせる自分は素晴らしい自分です。もし「育てる」の気持を忘れているかたがおりましたら、是非とも思い起こして豊かな地平を開いてゆきましょう。