2021年3月24日
中高年の健康戦略(30) 「老(2)」富士通川崎病院 顧問 行山康
この中高年の健康戦略もとうとう30回となりました。最初はこんなに続くとはおもっておりませんでした。乞われるままに書き綴っているうちにここまできてしまったというのが実情で、これまでこの拙いエッセイにお付き合いいただいたかたには心からお礼もうしあげます。まだ暫くは続けるつもりですのでよろしくお願いします。
さてこのシリーズの第一回で「老」ということについて述べ、生物としてからだの内、外から老化することは避けられない、例えばテロメアという老化に関係する遺伝子は2000個の遺伝子が毎年50個づつ減ってゆく、脳の神経細胞は1日10万個も減る、皮膚、髪の毛、外見の変化はもちろんのことである。しかしこうした「老」の徴候を十分に呑み込んで「生きる」の充実をめざすことが中高年の健康戦略として大事でないかということを申し上げております。
至極,当たり前のことで今,読み返すと汗顔の至りですが、今回は「老」をまっとうすることは本当はむずかしいのだということを述べてみましょう。
確かに年々、目が疲れやすくなって本を読む根気が減って白髪が増えてきたり、朝起きると、腰が重かったり、年だとおもうことはあります。しかし、一日中、鏡の前にいるわけでなし、新聞を読み、テレビを見て、庭木の手入れをしたり、友達と会ったり、病院へいったりしてあっという間に1日は過ぎてゆきます。親などの介護に時間をとられるかたもいるかもしれません。今は定年後の60,70、80歳代のどこから「老」を考えるかという時代になっているようにおもいます。
芥川賞作家の黒井千秋氏が「老いの中に在るもの」というエッセイで述べていることを紹介しましょう。古代ローマの政治家キケローの「老年について」、イギリスの小説家フォスターのエッセイ、深沢七郎の「楢山節考」などを紹介してのち、自分の言葉として以下のようなことを書いています。
「・・・・むしろ現在の老いるというものの本質は,生命の完了形としての老いはない。どちらかといえば、老いそのものの現在進行形の中身ではないかという気がします。毎日毎日生きている、そして目には見えない格好ではありながら、すこしずつ衰えてゆく、あるいは少しずつ死のほうに歩み寄っていく。歩み寄っていくけれども、どこが終わりかは誰にもわからない。…・・・老いていくことは、少しおおげさにいえば、永遠なる現在進行形であるということです(学士会報、No862)。」
「永遠なる現在進行形」とはうまいいいかたもあったもので、さすが作家はちがいます。
自然界で生物は生誕、成長、老化、消滅を繰り返しています。出発点は目に見えないような小さいところから出発して大きく成長し、その過程で子孫を残し、やがて朽ちてゆく。生物には必ず滅びあるように仕組まれている。滅びがなければ地上は生物であふれかえってしまう。滅びれば有機体は無機物まで還元されて再び有機体を形成する材料の一部となってゆく。
人の場合もまったく同じことです。そんなことは誰も成長する過程で自然とわかる。いずれ滅びることは十分理解しています。
「門松や冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし(一休)」
健康戦略として滅びることを理解するということはまず第一歩で当たり前のことですが、どんなに心の底からわかったとしても結論はかわりません。
人には他の生物と異なって意識の世界、精神の世界が大きく拡がっています。自分を含めた生物全般に滅びがあると理解するのは人だけでしょう。理解すると同時に、普通は自分の生きてゆく先にある「滅びる」とは何なんだと想像をめぐらし、多くの方は不安を感じます。この不安は真っ暗闇を手探りで歩くような得体の知れない、深いものがあります。生きている限りそれから逃れることができない、ひとにとって根源的なものです。この不安が大きすぎると毎日の生活意識と行動を押しつぶしてゆくことになります。
健康戦略として大切なのはこの不安意識を押し込めることではなく、いかにバランスよく心のなかに配置するかということです。
年一回、健康診断を受け問題があったら詳しく調べてもらって対処しよう。それ以外知らん、自分の好きなように暮らすというのもひとつの戦略です。かなりよい戦略かもしれません。一方、年に一回では心配だから2回も3回も健康診断を受ける。腰が痛んだり、あちこち具合がわるくなるので週の半分は医者通いをするというかたもおられます。やや滅びの不安と恐怖を多めにみつもっているかもしれません。
ただしどのような戦略で対処するかはそれぞれに異なります。人それぞれに歩んできた道が違い、現在の状況が異なります。
また宗教の立場から対処するひともおられるでしょう。「神の国」へゆくのだから何の心配もしていないとおもっておられるかたもいます。しかし日本人の90%以上は無宗教の範疇にあり、大多数のひとにとっては急に方向転換をして「神の国」を戦略に取り入れることは簡単なことではありません。
今は何の不足もなく元気でやっている、「ポックリ」ゆけば最高だ。「ピンシャン」と元気に過ごしていて「コロリ」となればよいというかたは多いです。しかしその場合は当然、病苦を避けたい、管を何本もつけて延命させられるのはかなわん、すなわち「ポックリ」とか「ピンピンコロリ」でない場合に対する不安があるわけです。
というわけで「永遠なる現在進行形」をそれぞれのおかれた状況に応じてまっとうしてゆくことはそれほど簡単なことではないことが理解されたとおもいます。
日本ではかって人類の歴史になかったような長寿者多数の時代を迎え、60,70,80歳代をさまざまな不安を乗り越えてよりよく生きてゆく形を求められているといえます。
(この項終わり、次回に続く)