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2021年4月20日

感謝する 佐藤東洋麿

 六十年ちかく愛好してきた煙草をやめてしまった。
とくに必死の決心をしたわけでもなく、まして八十路を過ぎてなお一年でも長生きを、と願うほど濃い日々を過ごしているわけでもない。たぶん飽きてしまったのだろう。買いおきに十箱ほど縦に長い木箱に、これまた六十年吸ってきた「わかば」が入れてあるが、手に取る気がしない。ひょっとすると体力かもしれない。
 大昔、愛煙家の黄金時代に「タバコは健康のバロメーター」というテレビのコマーシャルがあった。あれは本当だ。どんなに煙草が好きであっても病いに伏せっているときは欲しくならない。酒のほうはちがうらしい。酒を全く飲まない私にはよく分からないが、実兄が晩年、肝硬変から肝臓癌という大酒飲みの定番コースをたどっていたころ、病室でしきりに「ビール一杯」を欲しがった。ノンアルコールのビールが発売され始めていたから私がそれを持っていくと、その笑顔は少年にかえったようだった。そしてほどなく安らかに他界した。
 ふり返ると煙草には感謝の気持ちがふつふつと湧いてくる。あるとき同期の友から「お元気ですか?」とメールをもらった返事に「煙草と濃いコーヒーのおかげでなんとか元気です」と書いたのは、大人げなかったかもしれない。つまり貴方はお医者さんの言うとおりその二つを避けて暮らしているでしょうが、私は逆なんですよ、という揶揄を含んでいるから。しかし私の、思いもかけず長きに及んだ人生の楽しいときも辛いときも付きそってくれたのは煙草とエスプレッソだった。1960年代の半ば、フランス政府給費留学生としてニース大学の寮に落ちついたころ、友人知人がひとりも居なかった(パリなら多数の先輩が居たのに)私の唯一の憩いの場所は、歩いて行ける距離にあるカフェだった。 幅のひろい歩道に置いてあるテーブルには必ず灰皿があり、そこで「エスプレッソをひとつ」と注文し、一服する時間は至福と言えた。雨もようだった日にうっかり折り畳み傘を忘れたことがあった。翌日取りに行くと五十年配の店主は「これは便利そうだね、ジャポネはココが違う」と頭を指す。なるほどフランスにはまだ無さそうだった。いや元々このあたり、地中海沿岸のコートダジュール(紺碧海岸)と呼ばれる地域は雨が少ないし気候温暖だから折り畳み傘など要らない。日本なら梅雨どきに限らず、小さなバッグにもはいる傘はとても便利だ。あのとき以来、折り畳み傘を見るとニースの街角のカフェが浮かび、カフェで飲んだエスプレッソの味と絶妙なハーモニィを奏でる煙草が、心のなかで煙を出す。

 帰国して横浜国立大学に職を得て数年たったころ、逗子市に一人住まいをしていた母が胃癌になった。そして相模原市にある北里大学附属病院にはいることになった。当時はまだ癌という病名や余命の告知はいっさいなされず、面会者はつねにストレスを腹に溜めた。主治医はわたしや兄姉に「だいたい三ヶ月と思って下さい」と言った。大きくて広い病院だが東京や横浜から行くのはかなり遠く感じた。三人の子どもはローテーションを組み、なるべく母が回数多く子どもの誰かと話しができるようにした。私は病院の夕食どきに居会わせて食欲の無い母が残す食べものを平らげたりして、夜八時に「蛍の光」のメロディが流れると退室する。駐車場まで行って自分の車にたどり着くとようやく一服できる。暗い車内でエンジンもかけず暫くはあれこれと思いにふける。私が十歳のとき父が愛人と「蒸発」したため一家は貧窮にあえいだこと、兄が東京で会社員となり家を持ち二階に母の部屋を用意したのに、近隣の知人が居なくなる、と断固として逗子にとどまったこと。一服では足りず、もう一本の煙草に火をつける。ひとはかれが価いした人生を生きる、と言ったフランスの思想家がいたが、73歳の母は彼女に価いした人生を生きたろうか。父と一緒に満州に行き、小さいが会社を経営する彼の社長夫人となり運転手つきの車で美容院にかよったりもした。奉天(現、瀋陽)は日本人が支配する大都会だった。そこで私が生まれた、昭和14年2月。敗戦となっていのちからがら逃げ出すまであと6年とすこしだ。なぜ敗戦日の一年でも早く日本に帰らなかったの?と後日尋ねると「だってラジオでも新聞でも日本は負けないってー私はすぐ信じるタチだからね」。さらにもう一本の煙草でを出そうとして、いやこれではキリがない。闇のなかでエンジンをかけ、妻と娘が待つ自宅に向かった。
 煙草はいつも身に染みこんだ癒し薬だった。改めて感謝する。そして分かった!なぜ吸いたいと思わなくなったのか。癒したくなるような憂いも、ともに祝福したいような悦びも無くなったからだ。さようなら、煙草さん。



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