2021年10月28日
中高年の健康戦略(44) 「引き算と足し算」富士通クリニック 顧問 行山康
今回はおもに中高年のメンタルヘルスについて述べます。タイトルを「引き算と足し算」とするとぴんと感ずるかたもいるでしょう。
中高年の健康は引き算に満ちています。まず仕事の第一線から離れることでそれまで慣れ親しんだ環境が突然、なくなってしまいます。それまでに心の準備を重ねてきているとはいえ、この喪失感は大きいです。心の中に大きな空白、空洞が広がり、一朝一夕に埋めることが難しくなります。やっと会社のくびき、社会のくびきから解放されて自由になれると期待を持って飛び込んだはずです。そして仕事を持っているときは暇がなくて十分できなかったことに時間を割けるようになりました。ところがそれだけでは心の隙間を埋めきれないことに気がつきます。仕事を離れることは大きな引き算でした。
またこれまで滅多にはなかったような永遠の別れをしばしば経験する年代に入ります。あいつも、こいつももうこの世にはいないのだとふと思い起こします。
若いころのことですが冬山を3人で登っておりました。先頭の仲間が凍りついた壁を右のほうにトラバースしています。2番目が両側が切り立った狭い尾根でロープを繰り出して先頭を確保しています。3番目の自分は少し離れた位置で、尾根上で2番目の仲間を確保しています。手がかりが少ない難しい壁で先頭が「こりゃきついな」といっているうちに壁から剥がれ落ちて急な雪の斜面を滑ってゆきます。下のほうは凍りついた滝となっています。その一瞬、自分がすべきことは2番目に確保している人が先頭に引きずられて一緒に落ちることを防ぐことです。瞬間の判断ですが二人をとめることはできないとおもいました。自分自身の確保は雪に突き刺したピッケルにロープをまいただけのもので、ふたりに引きずられたらひとたまりもないでしょう。もし2番目が引きずられて尾根から落ち始めたら、その瞬間自分は尾根の反対側へ飛び降りるという覚悟を一瞬で決めました。二人対一人の重量バランスとなりますが、3人が滝へ落ち込むことは防げるとおもいました。
幸い2番目の仲間は墜落した先頭を滝の落ち口の手前で止めることが出来ました。この鮮烈な経験を共有した二人の仲間は、すでにこの世におりません。二人とも病死でした。
ひとそれぞれに特に身内でなくとも忘れがたい人がこの世を去ってしまって寂しいおもいをしたことがあるでしょう。友人、知人、学校の先生、クラブの先輩とか後輩、自分を可愛がってくれた近所のおじさんなどいつのまにかいなくなっています。自分の世界の一部が引き算されています。
引き算は「仕事の第一線からの離脱」とか「別れ」ばかりではありません。からだの衰え、気力、記憶力の衰えなども日々の引き算圧力となっています。状況的には、一日一日の時間経過そのものが引き算となるので、足し算してバランスをとるのは大変なことです。
しかし引き算ばかりだからといって落ち込んでいるわけにはゆきません。 映画、演劇、音楽、歌舞伎などを鑑賞する趣味、読書、ゴルフ、テニス、登山などのアウトドア、盆栽、庭いじりなど足し算の材料にはことかかないはずです。仕事で得た技術を生かしたボランティ活動、例えばパソコン教室を開いて初心者に教えることなどをおこなっているかたもおりました。新たに農業に従事する人、低開発国の技術援助に身を投ずるひとなど引き算を補ってあまりが出るくらいの活躍をなさっているかたもおります。孫の世話なども足し算の有力候補です。
最近はインターネットが発達して囲碁、将棋などを家にいても観戦できるようになり、科学技術の進歩は足し算の手段をふやしています。
引き算には足し算でバランスをとるのは常道のようにおもわれます。引き算は喪失感、うつ状態、虚脱感、生きる意欲の低下、場合によって悲しみなどのメンタルヘルス上の問題をもたらします。そうした引き算の落ち込んだ気分を趣味とか新たな生きがいを見出すことで足し算として補うのは自然の勢いです。
しかし引き算に直接、対決し、乗り越えてゆくという方法もあるのではないでしょうか。この場合、足し算のような代替品は必要ありません。ひたすら自分の心の空白、空虚、喪失の悲しみなどの落ち込んだ気分を見つめ味わい尽くすことで乗り越えてゆくのです。そのような禅の修業みたいなことは無理だというかたもいるかもしれませんが、意外とこれは誰でもおこなっていることなのです。ただし収支の計算があうかどうかは、ひとそれぞれといった面があります。
例えば「別れ」における葬送の儀式です。儀式そのものの中に引き算の心理的打撃を受け止め、乗り越えさせるものがふくまれています。心理学上は「通過儀礼」というようないいかたをします。
「老々介護」なども否応なしの引き算対策ともいえます。介護する、あるいはされるという事態は引き算の気分ですが、空白、空虚を感ずる暇もない日々の営為となります。もしそこに「愛」というものが少しでも含まれれば、引き算どころか大いなる足し算となる可能性を秘めています。
中高年の健康戦略としては引き算と足し算のバランスをとってゆくことが肝要です。簡単なことではありませんが、自分が考えるポイントはふたつあります。
ひとつは基礎的なこととしてからだを常に鍛えておくこと。「やまいは気から」という言葉がありますが、これが真実であると同時に、その引き算を跳ね飛ばすようなからだの力を準備しておくことも大切です。
もうひとつは好奇心を持ち続けること。常に新奇なことに目を開くという気持ちは人にとって、本然的なこととおもわれます。この気持ちで引き算の圧力を跳ね返してゆきましょう。
(この項終わり。以下に続く)